Montpellierの発音はモンペリエかモンプリエか?

日本人はMontpellierをモンペリエと大体の人が発音するが、フランス人はモンプリエという人が多い。フランス語の発音の規則からするとモンペリエの方が正しいと思われるが何故だろう。他にもこういう例がある。Auxerre(89)をオーセールと発音したり、オークセールと発音したりす...

2016年12月25日日曜日

Notes de lecture

   Au sud de cette ligne(la limite nord de la vigne marchande), la vigne est le plus souvent discrète. Elle ne fait que se glisser ≪ le long des mille sinuosités des vallées et des coteaux ≫ exposés à la chaleur première du soleil levant. Au hasard de vos déplacements. elle surgit au coude de la route pour disparaître aussitôt. Elle ne se présente en nappes envahissantes que dans le vrai Midi, en Provence, Languedoc, Roussillon, sans jamais toutefois submerger tout le paysage. (L’identité de la France - les hommes et les choses II, p.108)

2016年12月11日日曜日

Notes de lecture

(...)l'histoire d'un peuple est inséparable de la contrée qu'il habite... Il faut partir de cette idée qu'une contrée est un réservoir où dorment des énergies dont la nature a déposé le germe, mais dont l'emploi dépend de l'homme. (P. Vidal de la Blanche, Tableau de la géographie de la France, p.8 - Citation de F. Braudel.

2016年12月2日金曜日

フランス町歩き⑥ ユス Eus(66)

カタロニアの旗とフランスの国旗が掲げられている町庁舎の手前で車を降りて、教会の方に登っていった。鐘楼はこの辺りでよく見る細い筒型のものだ。人けは全くない。教会の下の粗末な階段のところに太った猫が数匹こちらを見ている。誰かが餌をやるのだろう。アーチがいくつかある狭い階段の道を登ると教会は思った通り閉まっていた。教会の側面を通っていくと元お城のような廃墟があった。壁の間から景色を見るとちょうど正面に雪を頂いたカニグー(2786ⅿ)が見えた。こんなに近くで見たのははじめてだ。降りる途中にお城の中の通路のような道があって下の方に下っていたが、冒険せずに同じ道を下った。

帰りの道、車から振り返ると山の中腹にへばりついたユスの町が西日に輝いていた。『美しい村』の一つ。

2016年11月22日火曜日

地中海世界

La Méditerranéeを読み終えて、ジブラルタル海峡からシリアの海岸までにある巨大な内海の岸辺、小島、海、町、人、船が見えたような気がする。これまでどれほどの歴史家、作家、エッセイストなどが地中海について書いただろうか。知る限りでもカミュ、ジオノ、ダレル、シャンソンなど西洋側から見た視点だが、アラブ世界にも同じほどの作品があるのだろうか。ローマ人が呼んだMare Nostrumは広大なまた魅了的な世界だと改めて感じる。

2016年11月10日木曜日

新しい州名「オキシタニー」

2016年9月30日から2つの以前の州ラングドック・ルシオンとミディ・ピレネーが一緒になって、「オキシタニー」という名前が付いた。元来「オキシタニー」というのは、フランス北部のオイール語に対して、南部のオック語を話す地域の文化圏の呼び名である。住んでいる人・言語はオキシタン、最近売り出しの化粧品メーカーのオキシタンヌは女性形だ。中世ラテン語が崩れて変化し、北ではフランス語のouiをオイールといい、南ではオックといったことからその名前が付いた。

新しい州名の13県は、もちろん「オキシタニー」だが、地域全体の36%に過ぎない。そこが今問題になっている。残りの64%の地域、都市でいうとポー、ボルドー、リモージュ、クレルモン・フェラン、マルセーユ、ニースなどで「オキシタニー」文化の伝承に関わっている人、関わった人に混乱を引き起こすということである。更にカタロニア(スペイン側)、ピエモン(イタリア北部)も関係してくる。元々「オキシタニー」はオック語を話す地域の呼び名であって、行政単位にはふさわしくない。中心がないのである。

他の地域の州名例えばヌーヴェル・アキテーヌ(旧名:アキテーヌ、リムーサン、ポワトゥー・シャラント)などは創造的でうまく付けている。南フランスの文化的伝統からするとこの命名はやや不器用だったのではないか。

2016年11月7日月曜日

④Via Turonensis パリ発

パリ(75)のシテ島からサン・ジャック通り(ローマ時代のメインストリート)を南に進む一番遠い道は、トゥールを通るためにこの名前が付いた。パリは巡礼の時代すなわち11~13世紀には人口5万人前後の町であった。

オルレアン(45)からロワール川に沿ってブロワ(41)を通ってトゥール(37)に至る。トゥールではサン・マルタンにゆかりの場所を回ったのだろうか。この聖人は、4世紀の人ではじめてガリアの地で修道院活動を行ったと言われる。ローマの軍人であったが、凍えた乞食に自分のマントを与えたという故事から、施しの聖人と見なされている。ヨーロッパでは広く名前が伝わっていて、フランスの準守護聖人にもなっている。

ポワティエ(86)では、サント・ラドゥゴンドとサン・ティレールが崇められた。ラドゥゴンドは6世紀の人でフランク族王のクロテールの王妃にされたが、逃れて修道女になり、祈祷所とフランスはじめての病院を建て自ら病人の世話をした。その後、ポワティエにノートルダーム修道院を建て、数々の病気治癒の軌跡を起こした。一方イレールの方は4世紀の人でサン・マルタンと同時代の人で実際サン・マルタンはポワティエまで来ている。聖人としては、人民にカトリックの教義を説いたり、聖書注釈などを書いた理論家であった。様々な作品の執筆をしながら、最後はガリアでは稀なオルトドクスの教会の大司教になった。

メル(79)にもサン・ティレール教会があるが、正面の建築様式が似ていて、やはりオルトドクスの教会だったのだろうか。それともサン・ティレールの遺骸がここにもあったのだろうか。メルからポンス(17)までの行程は、それぞれの区間が30㎞以下の距離で1日に歩ける距離だったのだろうか。

オルネー(17)にある、サン・ピエール教会は、古代ローマ時代からある墓場の中に立っている。また、墓場にはこの地方独特のホサナ十字架と4人の使徒の石像が立っているようである。4人の使徒とはヨハネ(北)、パウロ(南)、大ジャック(東、巡礼の恰好をしているらしい)、ペテロ(西)だ。教会の壁の彫刻は大分修復されたようだが、ペテロが殉教したと伝えられる逆さ十字架の像や数々の興味深い彫刻が残っている。

サン・ジャン・ダンジェリーには、9世紀に洗礼のヨハネの遺物を祀った修道院があったと言われるが、バイキングによって破壊された。

サント(17)にはサン・トゥトロップ大聖堂があるが、クルニー修道院が管理していて、何人かの修道僧が巡礼者たちを受け入れたようだ。

ポンス(17)は中世の城壁に囲まれた町だったが、巡礼の人たちのための病院があった。元々病院は城壁内にあったようだが、日が暮れると安全のために城門を閉じてしまうため巡礼者たちは翌日の朝まで待たねばならなかった。また、伝染病が城壁内に広がることを恐れて、後に領主が城壁の外に病院を建てたとされる。また、この病院は巡礼者でなくても受け入れ、その他寝るところと食事などを提供していた。捨て子のために病院入口には籠が置かれていたという話もある。

ボルドー(33)では、サン・タンドレ大聖堂、サン・スーラン教会、サン・ミッシェル教会などに巡礼者たちは立ち寄ったと思われるが、詳細はわからない。また、サン・ジャック病院があり、治療を受けた。この町ボルドーは1154年イギリス王朝の支配下に入ったが、巡礼者に何か影響があったのだろうか。

ソルド・ラベイ(40)では、サン・ジャン修道院に泊まった。水量の多い2つのガーヴ(川)を渡るには待つこともあったかもしれない。川を渡れば目指すはサン・ジャン・ピエ・ド・ポールだ。




2016年11月3日木曜日

③Via Lemovicensis ヴェズレー発

この道は、リモージュ(87)を通るためにこの名前がつけられた。リモージュを越えれば、ピレネーまでは平坦で肥沃な地帯を通る。

出発地点のヴェズレー(89)にあるマドレーヌ修道院は、11世紀から13世紀にかけて、西ヨーロッパでのマドレーヌ(マグダラのマリア)信仰の中心として、すでに多くの巡礼者を集めた。あのサン・ベルナール・ド・クレルヴォーもここで第二回十字軍を説いたと言われる。北東フランスからやってきた信者たちは、ここでミサを聞いて中央山塊をピレネーに向かって行った。

出発後、ブルジュ(18)経由の道とヌヴェール(58)経由の2つに分かれる。ブルジュを通る道は、シャリテ・シュール・ロワール(58)のノートルダーム修道院に立ち寄らねばなかった。クルニー修道院の影響下当時ヨーロッパで大きな勢力を持った修道院であった。当初パリのノートルダーム大聖堂の設計を真似たサン・テティエンヌ大聖堂には敬虔な信者や巡礼者が訪れた。

ヌヴェール側の道では、ヌーヴィ・サン・セピュルクル(36)にあるサン・テティエンヌ教会は、エルサレムにあるキリストの墓を納めたサン・セピュルクル教会を真似て、十字軍から戻ってきたディオルス(36)の領主が建立したと言われる。

サン・レオナール・ド・ノブラ(81)のサン・レオナールという聖人は、あくまでも伝説の域を出ない人だが、聖人伝によるとフランク族の王クロヴィスと同時代の人で、クロヴィスのようにキリスト教に入ったと伝えられる。また、クロヴィスが跡取りに授かるように祈って、それがかなえられた褒美としてノブラの地に土地を与えられ、修道院を開いたと言われる。サン・レオナールは、牢屋の囚人を解放したり、お産や家畜の病気を和らげる力があると信じられていた。

ペリグー(24)のサン・フロンという聖人は、伝説の人物だが、聖人伝によると1世紀ごろペリゴールで生まれ、エジプト、ローマと遍歴した。ローマでサン・ピエールに会ったと伝えられている。ペリゴールに戻り、この地の福音伝道者になった。

その後、バザス(33)を通って、サン・スヴェール(40)のクルニーと並ぶ大修道院に向かった。修道院に泊まった巡礼者たちは、疲れた体を休め、様々の恩恵に浴したと思われる。あとはサン・ジャン・ピエ・ド・ポールを目指すばかり。



2016年10月28日金曜日

②Via Podiensis ル・ピュイ・アン・ヴレ発

この道はル・ピュイ・アン・ヴレ(43)を出発して、中央山塊の山がちのコースを通る。

ル・ピュイにある、最初5世紀に建てられたサント・マリ・マジュール大聖堂は、西ヨーロッパで最初に建設された、マリアに捧げられた教会らしい。町の高台にあるノートルダム・ド・ラノンシアシオン大聖堂には、黒いマリア様が祀られている。この町にはマリア信仰の長い伝統があり、既にこの町を目指すヨーロッパ東方の巡礼者が絶えなかった。

黒いマリア像は、あの聖ルイ王が十字軍遠征から戻ってきて、この町に奉納したという話もあるが、現在あるマリア像はそれほど古いものではないらしい。18世紀の革命前にヴェイラックという人が描いた銅板だと今のような気品のある洗練されたマリア像ではない。しかし、ル・ピュイの黒いマリア像が最初に造られ、他のマリア像のモデルになったことは間違いない。推測になるが、この18世紀以前のアリア像がマリアがなぜ黒いかというの謎を解く道に導いてくれるように思える。現在、2つの説がある。ひとつは、この18世紀以前のマリア像が、エジプトの豊穣の女神イジス像の姿勢と似ていると言われる。そう言えば、サント・マリ・ド・ラ・メールの黒いサラも2人或は3人マリアに従ってエジプトからやって来たと言われる。もうひとつの説は、木製であったため長い時間を経るにつれて、お香とロウソクの煤のために黒くなったのではないかという説。奈良の中宮寺の弥勒菩薩半跏像同じように年月と共に黒くなった。元々黒いマリア像を作りたければ黒檀などの黒い木を使うだろうが、どうもこの中世では黒檀ではないらしい。

巡礼の道の図

地図を見ると、この道には安全な区間(赤で囲まれた部分)があり、何か特別な方策が試みられている。これは、概して山の中を通るため、追剥などの被害を受けるからなのだろうか?ロット川に近づくと少しの間、川に沿って進む。山の中にあるコンク(12)はわざわざロット川から離れる。この小さな村もまたそこだけで巡礼地になっていた。修道院付属教会名になっているサント・フォワは、3世紀の初めアジャン(47)で殉教した12歳の少女で、その頭蓋骨がすばらしい聖物入れに残っている。866年にコンクの修道僧が誰も知らなかったサント・フォワの骨を持ち帰って、ここにあるらしい。巡礼者たちにも遠回りする価値があったのだろう。

カオール(46)でヴァラントレ橋を渡り、ロット川を離れる。次の目的地はモワサック(82)だ。ここのサン・ピエール修道院付属教会も元より巡礼者には重要だったが、それよりもこの道では唯一サン・ジャック信心会(慈善団体のような組織)が病院を組織し、巡礼者たちの治療にあたった。

そのあと、難関のガロンヌ川を渡れば、目指すはピレネーだ。途中のエール・シュール・ラドゥール(40)には、巡礼者のための病院が2つあったらしい。サン・ジャン・ピエ・ド・ポールまでまだかなりの道のりだが、ガスコーニュの豊かな丘陵地帯を進む。



2016年10月21日金曜日

①Via Tolosana アルル発

この道はアルル(13)から出発してトゥールーズを通るのでこの名前が付いたと思われる。主に湿地帯を通るため比較的平坦なコースだった。

アルルのサン・トロフィーム教会には沢山の巡礼者たちがミサを聞いたに違いない。このトロフィームは3世紀にローマのローマ教会からガリア(今のフランス)に送られた7人の伝道者の一人でその7人が最初のガリアの司教になったとされるが、どんな奇跡を起こしたなどの話はなく、あくまでも伝説の域を出ない人物だ。現在の教会は12世紀に建設されたが、以前に重要な教会があったと思われる。少なくともアルルはミニ巡礼のばしょではなかった。

アルルを出ると舟橋か渡し舟でローヌ川を渡り、広大に広がるカマルグの湿地帯を進むとサン・ジル(30)に到着する。伝説によるとサン・ジルという聖人は7世紀ごろの人で、ミサを執り行っている時、天使が祭壇の上にフランス王の犯した罪を書いた羊皮紙を持って現れ、ミサが進むにつれ、その書かれた罪が消えていったという伝説がある。伝説はあくまで伝説だが、巡礼者を引き付ける話だ。巡礼に旅立つには何か理由がある。サン・ジルはすでにサンチアゴの前に巡礼地であった。

その後、それほど大きな町ではなかったモンペリエ(34)を通り、山側のサン・ギエーム・ル・デゼール(34)に進む。804年にトゥールーズ伯のギヨーム(オック語ではギエーム)ジェローヌという小さな川の上流に修道院を開いた。当初 キリストの十字架のかけらが聖物として納められており、すでに多くの巡礼者を引き付けていた。

トゥールーズまで距離があるが、ローマ時代の道の地中海と大西洋を結ぶ、比較的平坦な道を進んだに違いない。途中カルカソンヌ(11)のサン・ナゼール教会に寄ったかもしれない。トゥールーズのサン・セルナン大聖堂は多くの巡礼者を引き付けたことは建物の大きさ、構造を見れば安易に想像できる。セルナンという人は250年に野生の牛に引きずられて、現在のカピトゥール広場から大聖堂を結ぶ、昔のメインストリート(現在のトール通り)の途中で 息絶えたという凄まじい伝説の残る聖人だ。セルナンはサテュルナンとも呼ばれ、南西部の至る所に町の名前として残っている。どんな人物であったのだろうか。3世紀はガリアでは殉教(すなわち迫害)の時代だが、殉教者が巡礼者を引き付けたのだろうか。そう言えば、パリの聖人サン・ドニも3世紀に殉教したと言われる。首を切られた後、自分の首を持って歩いたという殉教の仕方も凄まじい。サン・ドニも多くの巡礼者を引き付けた。

トゥールーズを西に進むとガスコーニュ地方のオーシュ(32)に着く。現在、巨大なゴシックフランボワイヤン様式の大聖堂サント・マリ・ドーシュがあるが、9世紀頃に同名の教会があったようだ。巡礼者の間では、道中安全にサンティアゴまで導いてくれるマリヤ信仰は殊更重要だったようだ。巡礼の道にはマリア(ノートルダーム)の教会が多い。また、黒いマリア像も多い。黒いマリアについては後述するが、19世紀のマリヤ信仰復活も含めて、キリスト教の真髄を流れている。

ローマ時代のスペインへの道は、教会入口の彫刻がすばらしいオロロン・サント・マリ(64)を通って、ソンポール峠を越えて、スペインに入る。どの巡礼の道もローマ時代の道を少なからず通っている。


2016年9月27日火曜日

フランス町歩き⑤ ペルージュ Pérouges(01)

リヨン(69)から車で45分ほどのところにフランス美しい村の一つで中世の街並みが残るペルージュがある。観光局の前から緩やかな坂を上ると左側に教会がある。この教会は側面の壁がそのまま城壁の一部になっていて、銃眼が教会の内部から覗ける。教会の横が城門になっていて、教会の入口は城門の外になる。上の城門と下の城門があって、下の城門は城壁の反対側のやや下ったところにある。

上の城門を入るとそこがロンドの通りといい、城壁の内側をぐるっと回る道だ。左に行っても右に行っても同じだが、人がいる左側の道を行く。少し行くと右側にがガレット・ド・ペルージュの調理場が見えた。ガレットといってもピザのように厚い。ガレットよりも調理場がなんとなく中世風で中世はこんな風に店を構えていたんだなと思った。

狭い路地を覗くと先に広場が見える。菩提樹広場(Place de la Tilleul)だ。真ん中に菩提樹が一本生えている広場だが、ここが町の中心だ。今はカフェとレストランがあるが、あまり人はいない。菩提樹の下でタバコを一本吸った後、広場に面した建物を一つ一つ見て回った。建物の軒下にトウモロコシが沢山干してあった。壁をつたわるブドウの木には白ブドウがなっていた。

中世の町で静かなひと時を過ごした。

2016年9月1日木曜日

サンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の道 Camino francés

スペイン語のサンチアゴはフランス語でサン・ジャックと同じだ。 9世紀にキリストの弟子12使徒の一人Jacques le majeur(12使徒にジャックが二人いるので大ジャックと区別する)の墓が見つかり、それ以降ヨーロッパ中から巡礼者たちが集まるようになり、ローマ、エルサレムと並び3大聖地になった。どうしてサン・ジャックの墓ということが分かったか疑問だが、ペラージョという隠遁者が神の啓示を受けたというから本当なのだろう。このジャックはヘロデ王に殺されたという話もある。とにかく中世にキリスト教信者が目指す聖地になった。

12世紀のエムリー・ピコーという修道僧が書いたと言われる『巡礼ガイド』によるとフランスで ピレネー山脈に至るサンチアゴの巡礼路は4本ある。サンチアゴへの道参照。
サンチアゴへの道へのリンク
4本の道のうち3本は、サン・ジャン・ピエ・ド・ポール(64)からロンスヴォー峠(1057m、スペイン)を通ってピレネー山脈を越える。残りの1本はソンポールの峠(1632m)を越えてスペインに入る。地図でピレネー山脈を見ると大西洋岸と地中海岸を除いてフランス側スペイン側ともに3000m級の山が聳え立っている。ローマの道が通っていた地中海側はスペインに入ってからイベリア半島を縦断することになり、かなり遠回りになる。従って、巡礼の道がバスクを通ったのは当然かもしれない。

これらの巡礼の道が形成されたのには訳がある。いくつかの通過地点は、サンチアゴへの巡礼が始まる前からミニ巡礼地として沢山の信者を集めていた。それらのフランスの巡礼地をこれから見ていきたい。

2016年8月27日土曜日

海岸・プールでのブルキニの問題

                                                 プールでブルキニ
  
地中海沿岸のいくつかの市が海岸・プールでのブルキニの着用を禁止する条例を出した。それに対し国家評議会はこれらの市の条例は「信教と個人の自由という基本的自由を、明確かつ違法に侵害する」という理由で無効であるという見解を出した。市の禁止の理由が「宗教を誇示し、治安を乱す」などであるが、よく写真で見る19世紀から20世紀初めの水着を今着て海岸やプールにいたらどう思うだろうか。どちらも完全に浮いている。ブルキニの場合、宗教的理由らしいが、コーランには海岸やプールに行くなとは書いてないのだろうか。それほど宗教が人間の行動を規定するなら、宗教は不幸しか与えない。アラブ人の生活もすでに欧米化して久しいが、ヴァカンスを取ったり、サッカーを観にいったり、ほとんどフランス人と同じ生活をし、考え方もフランス人とそれほど変わらないのに、一部の在仏アラブ人がワザとこんなことをやっている。「信教と個人の自由」を尊重するあまりフランスの社会にはとんでもない「病原菌」が入り込んでいる。

長寿なオリーブの木

ガール県(30)にあるローマ時代の水道橋ポン・デュ・ガールの左岸にある3本のオリーブの木は1000年以上生きていると言われる。水道橋が約2000年前に建設されて、ニーム(30)まで水を運んでいた。この3本のオリーブの木は、もともとここに生えていたのではなく、1989年のフランス革命200年祭の時スペインからプレセントされたらしい。今でもちゃんと実がなる。ポン・デュ・ガールの近くには沢山のオリーブ畑があるが、ローマの水道橋とオリーブの木のある白茶けた風景とよくマッチする。

1956年の2月にフランス全土を異常な寒気が襲った。南仏でもエクス・アン・プロヴァンス(13)でマイナス20度まで達した。その時ほとんどのオリーブとブドウの木がやられ、ほとんど全滅した。そのため現在生えているオリーブの木は1956年以降のものだ。しかし、この冷害を逃れたオリーブの木が残っている。この木は比較的暖かかったと思われるロックブルンヌ・カップ・マルタン(06)にある。(写真)

この木は2000年以上生きており、高さが20m、今でもオリーブの実をつける。この木はまたフランスで一番古い木になるかもしれない。2000年前と言えば、ポン・デュ・ガールが建設されたアウグスチヌスの時代でPax romana「ローマの平和」と呼ばれた。

世界にはもっと古いオリーブの木がある。ギリシャのクレタ島のヴヴェスにある木は3000年以上たっているといわれる。そして、今でも実をつける。古代からオリーブオイルの産地として知られるクレタ島ならではの話だ。オリーブの木は病気や山火事に強く、様々な条件さえ整えば長生きする樹木だ。

2016年8月21日日曜日

Notes - VOYAGE

...je ne peux m’empêcher de mettre en doute qu'il existe d'autres véritables réalisations de nos profonds tempéraments que la guerre et la maladie, ces deux infinis de cauchemar.(p.418)

2016年8月10日水曜日

フランス町歩き④ カンボ・レ・バン Cambo-les Bains(64)

ホテルを出ると緩やかな坂道の両側に閑静な住宅が並ぶ。名前の通り保養地として知られ、昔は湯地客が訪れたと想像する。バスク地方にある小さな保養地には人影も少なく、夏なのに寂しい感じがする。あのシラノ・ド・ベルジュラックの作者のエドモンド・ロンスタンは、la maison de ses rêves(夢の家)を20世紀の初めにこの町の高台に建てた。ミニヴェルサイユのような庭園があるヴィラ・アルナガは、現在ロンスタンに関する博物館になっている。


夜、町のレストランChanteclerでバスク料理のAxoa de veau(axoaとはバスク語で細かく切った肉をいう。一種の子牛のソテ)を食べた。初めて飲んだバスク産の白ワインは軽くて爽やかだった。

2016年7月21日木曜日

社会からの疎外者とイスラム急進化

ニースのテロのチュニジア人は精神的に異常があったようだ。チュニジアではエンジニアを目指していたようだが、フランスに来てある日急にフランス社会に対する憎悪から犯行に及んだと想像する。何かしらの憎悪がなければああいう犯行はありえない。イスラム急進化という宗教的理由だけでは説明できない。確かにフランスのテレビでコンサートとかお祭りを見ていると一種のジェラシーを感じる時がある。第2次大戦のパリ解放の映像を見てもそうだが、フランス人は自分の気持ちを直接表現する。表現力に欠ける日本人にはジェラシーを感じても当然かもしれない。

自分の感情を直接表現するあまり、憎しみや怒りを抑えられない時がある。デモの時のカッスール(デモとは関係なくものを壊す者たち)は、自分が社会から疎外されいるという意識からアナーキスト的行動に出る。夫の家庭内暴力もゾラが書いているように19世紀からフランスの隠れた社会問題になっている。喜びや悲しみの表現ならまだしも、憎しみや怒りの対象が社会に向けられた場合不幸が生じる。

11月13日のパリのテロも犯罪者たちは、パリ郊外の不良で日ごろ社会に不満を持っていて、そこにイスラムの過激な考えを吹き込まれて、自分ではよくわからないまま、イスラムのヒーローとして命を落とした。死んでしまえばすべてが終わることなどわからなかった。

フランスの社会で疎外されている者は多い。社会の原型であるはずの学校ですでに規律についていけずに疎外され不良化する。親も無関心で手当てをもらうことだけを考えている。人との付き合いに不慣れな者は益々孤立する。人から学ぶということがない。だから暴力や犯罪に走ったりする。その点でイスラムの過激な考え方は、そのどうしようもない状況を打開し、反社会的な自分の欲求の実現の場を与えてくれる。人間誰でも時に疎外感を感じることはあるが、自分から社会に戻ろうとすることのできない人間は不幸な人間だ。

2016年7月20日水曜日

ポルトガル町歩き

一か月忙しかった。ポルトガルに行ったり、バルセロナに行ったり、リヨンに行ったり・・・

ポルトガルではポルトとリスボアに行ったが、概してポルトは豊か、リスボアは貧しいという印象を受けた。言葉はあまり通じなかったが、ポルトガル人は平和的な国民に見えた。 町には変な胡散臭いチンピラは見当たらず、みんな仕事をしていた。案内所のステファンヌに教えられた、ポルトガル最初のレストランは、日本に昔あったバラック風の食堂で、魚や肉のフライをポテトといっしょに出してくれた。値段は非常に安い。家族経営でお父さんと娘さんがサービスをして、お母さんと叔母さん(お母さんの姉妹?)が料理をつくっていた。後でステファンヌも食事にやってきた。

リスボアでは町を沢山走っている三輪車を借りた。運転手はラファエルという名で英語を話した。市内は丘になっていて、坂が多く、観光するのには便利だ。かなりスピードを出して、かって知ったる町を案内してくれた。町の近くを流れるタホ川は川幅がとてつもなく広く海のような印象を受けた。ポルトはドゥーモ川だが小舟が沢山通っていて水も汚い。

ポルトに来る前にあこがれのサンティアまで足を延ばした。期待にはずれ。町は近代的建物が立ち並び、古臭い教会だけが浮いていた。巡礼の時代の高揚は今はない。それでも近くのパラドールの中庭でビールを飲んで静かな時間を過ごした。

もう一つの巡礼地ファティマは、3人の羊飼い(男一人、女二人)が1917年にマリア様を見たという聖地だ。ルルドのように沢山の信者が訪れていた。とても暑い日だった。

2016年6月19日日曜日

フランス町歩き③ ソーリュー Saulieu(21)

ホテルを出ると前を街道がまっすぐはしっていて大きなトラックが騒音をあげてひっきりなしにとおる。街道を越えて50メートル先には高い城壁が見える。城壁の下は狭い公園になっていて、噴水から大量の水が噴き出している。城壁の上にはサン・タントシュ大聖堂の鐘楼が少しだけ頭を見せている。

今晩の夕食のレストランを見つけなければならない。城壁の左側の緩やかな坂を登りだした。Café Le Nord 小さなテラスでひとり客が座っている。坂を登りつめるとフランスの田舎によくある商店街通りだ。道の反対側から女の人が僕の前を歩いていた男の人に声をかけた。「夕べ彼または彼女の家にいったの?」「忙しくて行けなかった。」このふたりはなぜか学生時代からの旧友なのだろうと思った。

店のウインドーを見ながら少し歩くと市庁舎が見えてきた。市庁舎のところを右に曲がるとロマネスクの教会サン・タントシュが見えてきた。教会はがっしりしていて、ふたつある鐘楼も重々しい。アントシュという聖人は2世紀ごろ他の二人とこの場所で殉教したらしい。 教会に建物が隣接していておかしな感じだ。やはり教会は独立していた方がいい。

教会の脇を通っていくとまた街道に出た。結局適当なレストランは見つからなかった。

2016年6月9日木曜日

フランス町歩き② リブルヌ Libourne(33)

ガソリンスタンドのある大きなロータリーでバスを降りた。そこから長いエスプラナードが伸びている。高い建物も木もないので平らな広い道がただ伸びているような印象をうける。空には午後の終わりの太陽が輝いている。歩いていくと若者の集団が、ベンチや階段や道の真ん中に通行人には無関心にたむろしている。Café du Lycée...Lycée Max Linder...今晩の食事の場所を見つけなければ。

Hôtel de Franceは名前の通り昔風のホテルだった。いつもタバコを吸っている50代の姉妹がホテルをやっている。階段の上ると廊下には中くらいの古い絨毯が何枚もひかれていた。2つベッドがある、ちいさな部屋は、鎧戸が半分閉じられているので薄暗い。テーブルの上にはガラスの灰皿があった。今どきのホテルでは驚きだ。

次の朝、ホテルからモンテスキュー通りをまっすぐいくとマルシェに出くわした。広場が敷石をひく工事のため、市場も室内市場も混とんとしている。町には小さなひなびたワインバーが多い。大きな塔が遠くに見える通りに出ると目の前はドルドーニュ川だ。まだ朝早いため、対岸は霧でかすんでいた。 
***

リブルヌは人口2万4千人のジロンド県(33)の町で、ドルドーニュ川が近くを流れている。

2016年5月27日金曜日

この国のストとデモ(続き)

フランス中で「労働法改正」法撤回を求めて多くの配油所が占拠されているため、あらゆるガソリンスタンドに益々長い列ができている。これは今やガソリン欠乏という問題だけでなく、フランス経済に大きな影響を与えている。ニュースでは、大体郊外にある植木屋さんや車で行く海岸線の行楽地で客足が減っていると報じられている。植木と行楽より最優先の仕事場に行くためのガソリンが必要だからだ。日用品、特に食料も同時に確保しなければならない。仕事場が離れていたり、学校に子供を車で送らねばならない家庭では、他の交通手段がない限り生活に困難をきたす。大変なことになった。

この組合の動きの元凶がCGT(1895年創立)だ。特に数か月前に書記長になったPhilippe Martinez(写真)が曲者だ。 組合内混乱のため弱体化していたCGTを立て直すために選ばれた書記長。彼は極左派と知られ、CGTの鉄鋼関係の組合活動からのし上がった人だ。この人が諦めるかヴァルツ内閣が法案を放棄しなければ、このままの状況が続く。これほど経済に大きな犠牲を与えて反対する法案とどんなものだろうか?それほど労働者全体の生活に影響を与える法案なのか。労働省によれば労働者の約8%が何かしらの労働組合に加入している。多く見積もって、倍としても労働者全体の声を反映しているとはいえない。言ってみれば、デモの時のCasseurと同じようなものだ。ただ、CGTの方は民主主義の権利という武器を使って自らの行動を正当化 するのがよくない。



2016年5月19日木曜日

この国のストとデモ

この国ではストとデモが頻繁に起きるので前もってニュースなどを見て準備しなければならない。国鉄が18,19日にストだし、ノルマンディー地方ではTOTALの従業員が配油所をブロックしたため、ガソリンスタンドでは長い車の行列ができている。それぞれの要求内容はどうでもいいが、前者は公共交通だし、後者はストではなく、一種のデモだが生活に直接影響を及ぼす。国鉄の場合は毎度のことで、駅員に食ってかかる人は非常に稀で利用者のほとんどが諦め顔だ。ガソリンの方も列ができる原因にはみんな無関心のように見える。

モンペリエでもデモがあるとトラムのダイヤが大幅に乱れる。デモ隊が必ずコメディー広場を通るためだ。デモがあると利用者は浮かない顔をして来ない電車を待っているか、歩き出すかのどちらかだ。

ここのところ政府の「労働法改正」に反対して何度もデモがフランス中で起きている。その度によくないのが、デモ隊と全く関係ない人たち(Casseur) が機動隊を挑発したり、どさくさに紛れてATMを壊したり、店のガラスを割ったりして商品を盗んだりする。美しい民主主義の権利のデモが、まるで内戦でも起きているように思えてくる。デモを組織した組合は恥ずかしくないのだろうか。少なくともこれらの事件を起こした元は彼らなのだから。

フランス人は共和制の元で自己主張の強い人種だが、自己主張が強いあまり、他の市民を無意識にいじめている。他の人を害する自由の主張は、共和制の3原則の「自由」ではない。

2016年5月13日金曜日

Notes - VOYAGE

Comme si j'avais su où j'allais, j'ai eu l'air de choisir encore et j'ai changé de route, j'ai pris sur ma droite une autre rue, mieux éclairée, ≪Broadway≫ qu'elle s'appelait. (p.192)

 

2016年5月5日木曜日

あまり見ない500€札がなくなる

ヨーロッパ中央銀行が4日500€札の発行をやめることを決めた。2019年以降発行されなくなるが、お金としては使えるようだ。

確かにあまり見ない500€だが、外国人だからというだけでなく、ヨーロッパ連合の半分以上の人たちが見たことがない。ではどこで使われているかと言うと、麻薬取引や違法商売などの「汚い」お金や最近指摘された金持ちの税金逃れ、また賄賂などに使われている。普通の人に間違って回ってきても余程高い物を買わなければ使えない。店の人が警戒しなければ。500€が使うお札でなくてただ闇で流通するお金といえる。また、百万ユーロが50€だと重さ22kgになるのに対し、500€では2.2kgになるから、小さなカバンで約1億3000万円が運べるわけだ。

フランだった時、パスカルの顔が載っている500フランでも「おつりがない」と言われてなかなか使えなかったことを覚えているが、それよりずっと大きい500€はなくてもいいかもしれない。ただ、500€の裏の絵が2004年に建設されたミヨー大橋(モンペリエから車で約1時間)なので、なくなるとやや寂しい。

2016年5月1日日曜日

州の統合




フランス本国の州は2015年までコルシカ島を含めて22あったが、2016年1月1日から13になった。かなり広い地域が1つの州になったため、歴史的・文化的な違いが州の中に出てきて、統合した州は名前を変えなければならない。4月29日以降"Grand Est"(大東部?)となった。アルザス・シャンパーニュ・アルデンヌ・ロレーヌでは、歴史的変遷があって、独立ムードのあるアルザス地方のストラスブールで州の名前に関する住民投票を要求するデモが起きた。

モンペリエのあるミディ・ピレネー・ランsグドック・ルシヨンもまもなく決まるようだが、8つの名前が挙げられている。Languedoc, Languedoc-Pyrénées, Midi, Occitanie, Occitanie-Roussillon, Pays d'Oc, Pyrénées-Méditerranée et Terres d'Oc

個人的にはこの州がピレネー山脈をかなりカバーしているのでLanguedoc-Pyrénéesが好みだが、さてどうなるでしょう。

2016年4月29日金曜日

南仏の食材(3)トマトtomate

夏においしいトマト
トマトはにんにくと同様世界中で食べられているが、16世紀にメキシコからスペイン人によってヨーロッパにもたらされた。当時「日の沈まない国」と言われたスペイン帝国の本国とスペイン領だった南イタリアから地中海沿岸に広がった。北フランス・パリにはフランス革命1周年記念大会の時、上京したプロヴァンス人がもたらし、レストランでも出すようになった。

フランスでは生産量はそれほど多くはないが、南フランスではいろんな形で料理によく使われる。生で食べたり、オーブンで焼いて食べたり、ソースに使ったり、イタリア風の乾燥トマトもある。生の場合、オリーブオイルと相性がよく、ニース風サラダ、トマト・モッツアレラ、カマルグ風お米のサラダなど熱い夏にはいい。焼いたとまとでは、トマトファルシ(トマトの肉詰め)、にんにくとパセリとパン粉をのせて焼いただけのトマトプロヴァンサルがおいしい。ソースと言えば、ソースボロニェーズ(日本のミートソースに似ている)が一番ポピュラーだが、カタロニア風、プロヴァンス風、ナポリ風ソースみんなトマトソースだ。家庭では、缶詰のソースが使われるが、凝縮トマトソースは欠かせない。乾燥トマトはイタリアに行くとアンティパスタで食べるが、やや塩気があって、ハーブとオリーブオイルと共に食べる。

子供の頃、トマトは果物か野菜かと考えたことがある。植物学的には子房が変化したものだから間違いなく果物だ。ただ、料理学的には、他の果物のように甘さがないので、塩を加えてつけあわせあるいはソースで野菜として扱われる。フランスのスーパーでは野菜果物は 自分で好きなだけ袋に入れて秤で計るが、トマトは野菜の部類に入っている。

最近様々なトマトが出ているが、Cœur de bœuf(牛の心臓)というトマトがある。縦に筋が入っていて、水分がやや少なく変わった味だ。

2016年4月24日日曜日

フランスの県の話

現在フランスには101の県があってアルファベット順にAから番号がついている。車のプレートには県の番号ついていてどこからきた車かわかるようになっている。101とはやや中途半端だがコルシカ島が県としては20番だが、コルス・デュ・シュド(2A)とオート・コルス(2B)に分けられるから一緒にすれば5つの海外県を合わせてちょうど100になる。昔は中学校で県の番号を覚えさせたと聞くが、100もあるとなかなか覚えられない。自分が住んでる県の周りは覚えられても、行ったことのない遠い県はすぐ忘れてしまう。日本の県名と違って数字を使うために抽象化されているためだ。

またフランスの県の名前は多くの場合、その県を流れている川の名前からつけられている。ストラスブールがある県は、バ・ラン(67)。ランはフランス語でライン川をこう発音し、バは下流を意味する。モンペリエのある県はエロー県(34)、エロー川が流れている。かのローマ時代の水道橋ポン・ド・ガールがかかっているガルドン川は、元はオキシタン語からきているらしいが、県名のガール(30)と同じとみなしていいようだ。

南フランスで面白い例外が二つある。一つは、アヴィニョンのあるヴォークルーズ県(84)で、山の中腹にあいた穴から水があふれ出ている(フォンテーヌ・ド・ヴォークルーズ)。水藻が一面に生えたきれいな川はソルグ川となり、一帯を潤している。ここでは川の名前ではなく、泉の名前が県名にあなっている。ヴォークルーズとはラテン語のVallis clausa(閉じた谷)からきている。二つ目は、トゥーロンが県庁所在地のヴァール県(83)だ。確かにヴァール川という川はあるが、県内を流れず、隣のアルプ・マリティーム県(06)を流れている。この例はフランスの県では例を見ない。これは、1860年に行われた、フランスへの帰属を決める住民投票(男だけ)で当時のニース伯爵領とグラース郡が新しい県になったためだ。グラース郡の地域がヴァール県に食い込んでいる。

最後に、県はフランス革命の時に制定されたが、今でも5つの海外県が世界中に散らばっている。その中で仏領ギアナ(973)はジャングルばかりとはいえ、広大な領地だ。よく人工衛星の打ち上げでニュースなどで紹介される。本国の県と同じように同じ郵便局があり、ユーロが使われている。アルジェリアも1962年の独立まで県がいくつかあって本国の県と同等に扱われた。

2016年4月17日日曜日

フランス町歩き① ペゼナスPézenas(34)

ペゼナスの町は南仏エロー(Hérault)県(34)にある町だ。13世紀にはじまり、18世紀まで年3回~5回の定期市で栄えた。その当時の定期市としては、北のシャンパーニュ、南のペゼナスと言われたほどだった。15世紀の大商人あのジャック・クール(Jacques Cœur)もモンペリエに店を開いた後、定期市のためにこの町に住んでいた。モンペリエには現在ジャック・クールという市場がある。

17世紀の喜劇作家・役者のモリエールもこの町と関係が深い。アルマン・ド・ブルボン公に保護され、劇団を引き連れて地方を巡業していたモリエールは、15世紀以降2世紀以上ペゼナスで開かれていたラングドック三部会の人たちのために1653年に劇団を連れてやってきた。演劇といっても現在のようにオペラ座がいたるところにある時代と違い、上演はすべてプライベートで行われた。ブルボン公がベゼナスに住んでいたのでやってきたのだろう。

 町の歴史地区を歩いていると古い建物(14~16世紀)がかなり残っていておもしろい。定期市があったため、ユダヤ人地区もある。それらの建物の1階には小さなブティックが店を並べていて、見て回るだけでも楽しい。町のあらゆるケーキ屋さんで売らているのがパテ・ド・ペゼナス(写真)だ。変な形をしているが、糸巻きの形らしい。パテだから食事の最初に白ワインといっしょに食べるようだが、味は甘くてしょっぱい味だ。食べる時少しあたためろとケーキ屋の女将に言われた。

2016年4月14日木曜日

南仏の食材(2)にんにくail

にんにくは古代エジプトでは紀元前3750年頃から栽培されていたらしい。古代ギリシャではオリンピックの運動選手が記録を伸ばすために好んで食べ、古代ローマでは遠征中の兵士に耐久力をつけるために食べさせた。ヨーロッパに広がるのは、十字軍遠征から帰ってきた人たちのおかげらしい。万能薬とみなされ、中世ではペストや悪魔にとり憑かれないとみなされた。また、匂いが強いため、14世紀のスペインの王様は、にんにくを食べた騎士は1か月間宮廷に出入りを禁止したという話もある。

地球上のほとんどの国で生産されているが、中国、インド、韓国が生産量が多い。 フランスでも 産地は沢山あるが、白、むらさき、ピンク、燻製(ノール県アルルー)など種類も多様だ。個人的好みを言えば、タルヌ県ロートレックのピンクのにんにくが好きだ。小粒で身が締まっていて、匂いはやや強いが味がある。

料理ではオリーブオイルと一緒に使われるが、南仏ではブイヤベース、アイオリ、セット(エロー県の漁港)風ルーユ(ブーリード)など魚料理、またドーブ(牛肉のワイン煮)にも使う。まだ食したことはないが、にんにくのスープもあるらしい。カタロニア風エスカルゴではトマトソースの中ににんにくが入っている。タパスのPan con tomateもおいしい。

【遊びのフランス語】フランス語では複数の場合、SかXを最後につければいいが、このにんにく(ail)は変わっている。ただSをつけてもいいが、マルシェなどの表示ではAulxと書かれている。これでオーと発音する。オーという発音する単語で骨Osの複数形がある。これも変わっていて、単数ではオスと発音する。

2016年4月12日火曜日

フランス(語)雑記①

2013年にフランス人の7%がフランス語を書くのと読むのにに重要な問題があるとINSEEが報告している。我々日本人にとっては、フランス語を習い始めたとき、何でフランス語は発音しない字があったり、文法の規則が複雑だったり感じたと思う。フランス人にとってもフランス語は少なくとも7%の人たちには難しい。

同じラテン語を起源に持つスペイン語やイタリア語に比べても余分な規則が多い。例えば、フランス語は冠詞をほとんど必ず名詞の前に付ける。しかも定冠詞や不定冠詞だけならまだいいが、部分冠詞なんて変な冠詞がある。スペイン語やイタリア語はない。 部分冠詞なんていらないんじゃないのという人もいるかもしれない。とにかくフランス語には余分なものが多い。日本人にとってはこの余分なものがフランス語を習う時に障害になっている。

この余分なものはフランスの社会では生活に必要なのかもしれない。芳香を放つローソクは、教会のローソクと違って「遊び」だ。他にも「遊び」がある。「遊び」になるものはもしガチガチの合理主義からみれば余分だ。

フランス語にある「遊び」は、言語学的変化がなせる業なのか、それともフランス人の好みか。無意識にフランス語をつくるのはフランス人だが、7%の人たちはなぜついていけないのか。フランス語は規則が多すぎるからかもしれない。

2016年4月8日金曜日

De Casanova

...j'ai pour la première fois de ma vie à l'âge de trente ans appelé à mon secours la philosophie dont j'avais tous les germes dans l’âme...  
                                     
 ・・・人生30歳にして初めて心の中に芽生えていた哲学に救いを求めた・・・(拙訳)


この一節はヴェニスの監獄ピオンビに収容され時のものだ。あとでそこを脱走するのだが・・・この「哲学」という言葉が訳すのが難しいが、何を意味するのだろうか?単に「新しい考え方」なのか。この種のフランス語の言葉が本を読む時、漠然と把握したつもりで逃げていく。母国語でない人間にとっては宿命か?

数日後・・・カサノヴァは18世紀のパリ にやってきた。副王とみなされていたド・ショウワジュールやポンパドール伯爵夫人が出てくる。その会話からそれぞれの人柄が見えておもしろい。勿論そのままの言葉を使ったとは思えないが、NHKの大河ドラマみたいだ。ルイ15世時代は、3つの戦争が原因でひどい財政危機になる時代だが、カサノヴァはその社会を生きていく。

2016年4月7日木曜日

南仏の3つの食材(1)オリーブオイルhuile d'olive

南フランスだけではなく、広く地中海沿岸で広く料理に使われる3つの食材といえば、(1)オリーブオイル、(2)にんにく、(3)トマトだ。これから3回にわたって歴史、生産と生産地、料理などを調べてみたい。

 オリーブオイルは、古くギリシャ時代から料理、コスメティック(化粧品)などに使われていた。紀元前3世紀に哲学者のテオプラトスがオリーブオイルの匂いにつぃて語っているようだ。現在のフランスでの生産量は、スペイン、イタリア、ギリシャなどに遠く及ばないが(世界21位2013年)、AOC,AOPなど産地品質保証名が8つある。ニオンス(Nyons)、レ・ボーの渓谷、エックス・アン・プロヴァンス、オート・プロヴァンス、プロヴァンス(どこ?)、ニース、コルシカ島、ニーム。

 さて料理だが、乳牛のいない南フランスではバターよりもオリーブオイルがすべての料理に使われる。サラダ、パスタ、肉野菜の料理それから揚げ物にも使われる。アイオリ、ルーユ、アンショイヤードなどの料理のソースもオリーブオイルがベースだ。

 いつか生産者の人がいっていた。「他のヒマワリの油などと違って、オリーブオイルは、種と果実から作られる」と・・・

2016年4月6日水曜日

アルル駐車場事情

4月からアルルで新しいオダトゥール(写真)が設置された。プレイトナンバーを入れなければならず、料金体系の違うゾーンが3つある。友人によればこれはアメリカ式ということだが、以前のやり方の方がよかった。チケットを出すのに時間がかかるのでオダトゥールの前に行列ができる。見回る人も仕事が増えたわけだ。

田舎町のアルルにはこのシステムは似合わない。 そのために有料ゾーンはガラガラだ。

2016年4月5日火曜日

受胎告知の日

今年は復活祭が3月27日と最速だった。復活祭は年によって動くけれどもどう決められるのか。春分の日と満月の関係で決められる。今年は春分の日が3月20日で満月が3月23日だった。復活祭は満月の次の日曜日になる。

今年は復活祭が早かったために受胎告知の日も動いた。本来はキリストが生まれてから9か月後の3月25日だが、今年は復活祭が4月2日より早くなったので復活祭後の第二月曜日の4月4日になった。

とても細かい規則。キリスト教の暦もそれなりにちゃんとできている。キリスト教信仰が薄らいできているフランスでこんなことを考えているのは、日本人の僕ぐらいなものだ。

2016年4月4日月曜日

プロフィールの写真


この写真はネットで拾った、Senlis(サンリス)の大聖堂のステンドグラスの一部で、サン・ルイ王がドイツ皇帝(右)とイギリス王の仲直りを仲介している場面らしい。サン・ルイはナイーブな面はあったものの、彼の真摯な性格のおかげで諸侯に信頼されていたようだ。「真剣に」十字軍に二回もいき、エーグ・モルト、カルカソンヌのお城、また、パリのグランド・シャペルもつくった。ただのボンクラなフランス王ではない。また、謎に満ちていて(取り巻きが作り上げた?)、魅力的な人物だ。

フランス王の中には、面白い人物が多い。フィリップ・ル・ベル、アンリ4世、ルイ14世、ルイ16世など・・・

(参考)Saint Louis, Jacques LE GOFF

まえがき

それではさて何を書くか?書く内容は山ほどある。しかし、どう見てもすべての話が完結していない。恐らく死ぬまで書き続けて死によって中断されない限り、終わらないだろう。本を書くように完結した形にならないのがブログなのか。とにかくそのままでは消えていってしまう記憶をはっきりさせるように書いていこう。

2016年4月3日日曜日

D'un endroit à l'autre

D'un château à l'autre... Le soleil brillait au large de la mer bleu clair et le vent venant du nord soufflait sans insistance. J’étais dans un château ruiné prés d'un olivier séculaire qui semblait me protéger du soleil et du vent.

オリーブの木の下で

フランスに来てから30年を超えてしまいました。その間フランス中を旅する機会があっても何も書き残さずに過ぎてしまいました。しかし、まだ記憶の中にあ の時感じた驚きやためらいの痕跡が残っています。ヴェネチア人のカサノヴァは、フランス革命の年に”Histoire de ma vie"を書き上げました。友達がこの世を去っていき、自分の体に変調が起きるようになった時、死を感じずには生きられなくなってきます。あの時見たマル セイユの早朝の街角や真夏のぶどう畑の息苦しさ・・・何か書き残すことを決心しました。カサノヴァの例にならって・・・