リヨン(69)から車で45分ほどのところにフランス美しい村の一つで中世の街並みが残るペルージュがある。観光局の前から緩やかな坂を上ると左側に教会がある。この教会は側面の壁がそのまま城壁の一部になっていて、銃眼が教会の内部から覗ける。教会の横が城門になっていて、教会の入口は城門の外になる。上の城門と下の城門があって、下の城門は城壁の反対側のやや下ったところにある。
上の城門を入るとそこがロンドの通りといい、城壁の内側をぐるっと回る道だ。左に行っても右に行っても同じだが、人がいる左側の道を行く。少し行くと右側にがガレット・ド・ペルージュの調理場が見えた。ガレットといってもピザのように厚い。ガレットよりも調理場がなんとなく中世風で中世はこんな風に店を構えていたんだなと思った。
狭い路地を覗くと先に広場が見える。菩提樹広場(Place de la Tilleul)だ。真ん中に菩提樹が一本生えている広場だが、ここが町の中心だ。今はカフェとレストランがあるが、あまり人はいない。菩提樹の下でタバコを一本吸った後、広場に面した建物を一つ一つ見て回った。建物の軒下にトウモロコシが沢山干してあった。壁をつたわるブドウの木には白ブドウがなっていた。
中世の町で静かなひと時を過ごした。
モンペリエは、フランスで人口が8番目の町、地中海が近い都市型観光地であると同時に古い大学都市としても知られる。ミシュラングリーン・ガイド・ブックの三つ星を得て≪最も訪れる価値のある≫観光都市と認められた。 豊かな歴史遺産に恵まれる一方、近年では様々なフェスティバルが開催される。ラジオフランス・オキシタニー・モンペリエ音楽祭、モンペリエ・ダンス、地中海映画祭、モンペリエ・ブラスバンド祭など。特にダンスでは世界の中心的存在でもある。トラムウエイ(市街電車)などのメトロポール計画がモンペリエを中心に進まれていて、隣接都市を含めながら新しい街づくりが進んでいる。また、周りのラングドック地方は、古くからワインの生産地として知られ、上質のワインが生産されている。
Montpellierの発音はモンペリエかモンプリエか?
日本人はMontpellierをモンペリエと大体の人が発音するが、フランス人はモンプリエという人が多い。フランス語の発音の規則からするとモンペリエの方が正しいと思われるが何故だろう。他にもこういう例がある。Auxerre(89)をオーセールと発音したり、オークセールと発音したりす...
2016年9月27日火曜日
2016年9月1日木曜日
サンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の道 Camino francés
スペイン語のサンチアゴはフランス語でサン・ジャックと同じだ。 9世紀にキリストの弟子12使徒の一人Jacques le majeur(12使徒にジャックが二人いるので大ジャックと区別する)の墓が見つかり、それ以降ヨーロッパ中から巡礼者たちが集まるようになり、ローマ、エルサレムと並び3大聖地になった。どうしてサン・ジャックの墓ということが分かったか疑問だが、ペラージョという隠遁者が神の啓示を受けたというから本当なのだろう。このジャックはヘロデ王に殺されたという話もある。とにかく中世にキリスト教信者が目指す聖地になった。
12世紀のエムリー・ピコーという修道僧が書いたと言われる『巡礼ガイド』によるとフランスで ピレネー山脈に至るサンチアゴの巡礼路は4本ある。サンチアゴへの道参照。
サンチアゴへの道へのリンク
4本の道のうち3本は、サン・ジャン・ピエ・ド・ポール(64)からロンスヴォー峠(1057m、スペイン)を通ってピレネー山脈を越える。残りの1本はソンポールの峠(1632m)を越えてスペインに入る。地図でピレネー山脈を見ると大西洋岸と地中海岸を除いてフランス側スペイン側ともに3000m級の山が聳え立っている。ローマの道が通っていた地中海側はスペインに入ってからイベリア半島を縦断することになり、かなり遠回りになる。従って、巡礼の道がバスクを通ったのは当然かもしれない。
これらの巡礼の道が形成されたのには訳がある。いくつかの通過地点は、サンチアゴへの巡礼が始まる前からミニ巡礼地として沢山の信者を集めていた。それらのフランスの巡礼地をこれから見ていきたい。
12世紀のエムリー・ピコーという修道僧が書いたと言われる『巡礼ガイド』によるとフランスで ピレネー山脈に至るサンチアゴの巡礼路は4本ある。サンチアゴへの道参照。
サンチアゴへの道へのリンク
4本の道のうち3本は、サン・ジャン・ピエ・ド・ポール(64)からロンスヴォー峠(1057m、スペイン)を通ってピレネー山脈を越える。残りの1本はソンポールの峠(1632m)を越えてスペインに入る。地図でピレネー山脈を見ると大西洋岸と地中海岸を除いてフランス側スペイン側ともに3000m級の山が聳え立っている。ローマの道が通っていた地中海側はスペインに入ってからイベリア半島を縦断することになり、かなり遠回りになる。従って、巡礼の道がバスクを通ったのは当然かもしれない。
これらの巡礼の道が形成されたのには訳がある。いくつかの通過地点は、サンチアゴへの巡礼が始まる前からミニ巡礼地として沢山の信者を集めていた。それらのフランスの巡礼地をこれから見ていきたい。
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