ニースのテロのチュニジア人は精神的に異常があったようだ。チュニジアではエンジニアを目指していたようだが、フランスに来てある日急にフランス社会に対する憎悪から犯行に及んだと想像する。何かしらの憎悪がなければああいう犯行はありえない。イスラム急進化という宗教的理由だけでは説明できない。確かにフランスのテレビでコンサートとかお祭りを見ていると一種のジェラシーを感じる時がある。第2次大戦のパリ解放の映像を見てもそうだが、フランス人は自分の気持ちを直接表現する。表現力に欠ける日本人にはジェラシーを感じても当然かもしれない。
自分の感情を直接表現するあまり、憎しみや怒りを抑えられない時がある。デモの時のカッスール(デモとは関係なくものを壊す者たち)は、自分が社会から疎外されいるという意識からアナーキスト的行動に出る。夫の家庭内暴力もゾラが書いているように19世紀からフランスの隠れた社会問題になっている。喜びや悲しみの表現ならまだしも、憎しみや怒りの対象が社会に向けられた場合不幸が生じる。
11月13日のパリのテロも犯罪者たちは、パリ郊外の不良で日ごろ社会に不満を持っていて、そこにイスラムの過激な考えを吹き込まれて、自分ではよくわからないまま、イスラムのヒーローとして命を落とした。死んでしまえばすべてが終わることなどわからなかった。
フランスの社会で疎外されている者は多い。社会の原型であるはずの学校ですでに規律についていけずに疎外され不良化する。親も無関心で手当てをもらうことだけを考えている。人との付き合いに不慣れな者は益々孤立する。人から学ぶということがない。だから暴力や犯罪に走ったりする。その点でイスラムの過激な考え方は、そのどうしようもない状況を打開し、反社会的な自分の欲求の実現の場を与えてくれる。人間誰でも時に疎外感を感じることはあるが、自分から社会に戻ろうとすることのできない人間は不幸な人間だ。
モンペリエは、フランスで人口が8番目の町、地中海が近い都市型観光地であると同時に古い大学都市としても知られる。ミシュラングリーン・ガイド・ブックの三つ星を得て≪最も訪れる価値のある≫観光都市と認められた。 豊かな歴史遺産に恵まれる一方、近年では様々なフェスティバルが開催される。ラジオフランス・オキシタニー・モンペリエ音楽祭、モンペリエ・ダンス、地中海映画祭、モンペリエ・ブラスバンド祭など。特にダンスでは世界の中心的存在でもある。トラムウエイ(市街電車)などのメトロポール計画がモンペリエを中心に進まれていて、隣接都市を含めながら新しい街づくりが進んでいる。また、周りのラングドック地方は、古くからワインの生産地として知られ、上質のワインが生産されている。
Montpellierの発音はモンペリエかモンプリエか?
日本人はMontpellierをモンペリエと大体の人が発音するが、フランス人はモンプリエという人が多い。フランス語の発音の規則からするとモンペリエの方が正しいと思われるが何故だろう。他にもこういう例がある。Auxerre(89)をオーセールと発音したり、オークセールと発音したりす...
2016年7月21日木曜日
2016年7月20日水曜日
ポルトガル町歩き
一か月忙しかった。ポルトガルに行ったり、バルセロナに行ったり、リヨンに行ったり・・・
ポルトガルではポルトとリスボアに行ったが、概してポルトは豊か、リスボアは貧しいという印象を受けた。言葉はあまり通じなかったが、ポルトガル人は平和的な国民に見えた。 町には変な胡散臭いチンピラは見当たらず、みんな仕事をしていた。案内所のステファンヌに教えられた、ポルトガル最初のレストランは、日本に昔あったバラック風の食堂で、魚や肉のフライをポテトといっしょに出してくれた。値段は非常に安い。家族経営でお父さんと娘さんがサービスをして、お母さんと叔母さん(お母さんの姉妹?)が料理をつくっていた。後でステファンヌも食事にやってきた。
リスボアでは町を沢山走っている三輪車を借りた。運転手はラファエルという名で英語を話した。市内は丘になっていて、坂が多く、観光するのには便利だ。かなりスピードを出して、かって知ったる町を案内してくれた。町の近くを流れるタホ川は川幅がとてつもなく広く海のような印象を受けた。ポルトはドゥーモ川だが小舟が沢山通っていて水も汚い。
ポルトに来る前にあこがれのサンティアまで足を延ばした。期待にはずれ。町は近代的建物が立ち並び、古臭い教会だけが浮いていた。巡礼の時代の高揚は今はない。それでも近くのパラドールの中庭でビールを飲んで静かな時間を過ごした。
もう一つの巡礼地ファティマは、3人の羊飼い(男一人、女二人)が1917年にマリア様を見たという聖地だ。ルルドのように沢山の信者が訪れていた。とても暑い日だった。
ポルトガルではポルトとリスボアに行ったが、概してポルトは豊か、リスボアは貧しいという印象を受けた。言葉はあまり通じなかったが、ポルトガル人は平和的な国民に見えた。 町には変な胡散臭いチンピラは見当たらず、みんな仕事をしていた。案内所のステファンヌに教えられた、ポルトガル最初のレストランは、日本に昔あったバラック風の食堂で、魚や肉のフライをポテトといっしょに出してくれた。値段は非常に安い。家族経営でお父さんと娘さんがサービスをして、お母さんと叔母さん(お母さんの姉妹?)が料理をつくっていた。後でステファンヌも食事にやってきた。
リスボアでは町を沢山走っている三輪車を借りた。運転手はラファエルという名で英語を話した。市内は丘になっていて、坂が多く、観光するのには便利だ。かなりスピードを出して、かって知ったる町を案内してくれた。町の近くを流れるタホ川は川幅がとてつもなく広く海のような印象を受けた。ポルトはドゥーモ川だが小舟が沢山通っていて水も汚い。
ポルトに来る前にあこがれのサンティアまで足を延ばした。期待にはずれ。町は近代的建物が立ち並び、古臭い教会だけが浮いていた。巡礼の時代の高揚は今はない。それでも近くのパラドールの中庭でビールを飲んで静かな時間を過ごした。
もう一つの巡礼地ファティマは、3人の羊飼い(男一人、女二人)が1917年にマリア様を見たという聖地だ。ルルドのように沢山の信者が訪れていた。とても暑い日だった。
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