Montpellierの発音はモンペリエかモンプリエか?

日本人はMontpellierをモンペリエと大体の人が発音するが、フランス人はモンプリエという人が多い。フランス語の発音の規則からするとモンペリエの方が正しいと思われるが何故だろう。他にもこういう例がある。Auxerre(89)をオーセールと発音したり、オークセールと発音したりす...

2016年10月28日金曜日

②Via Podiensis ル・ピュイ・アン・ヴレ発

この道はル・ピュイ・アン・ヴレ(43)を出発して、中央山塊の山がちのコースを通る。

ル・ピュイにある、最初5世紀に建てられたサント・マリ・マジュール大聖堂は、西ヨーロッパで最初に建設された、マリアに捧げられた教会らしい。町の高台にあるノートルダム・ド・ラノンシアシオン大聖堂には、黒いマリア様が祀られている。この町にはマリア信仰の長い伝統があり、既にこの町を目指すヨーロッパ東方の巡礼者が絶えなかった。

黒いマリア像は、あの聖ルイ王が十字軍遠征から戻ってきて、この町に奉納したという話もあるが、現在あるマリア像はそれほど古いものではないらしい。18世紀の革命前にヴェイラックという人が描いた銅板だと今のような気品のある洗練されたマリア像ではない。しかし、ル・ピュイの黒いマリア像が最初に造られ、他のマリア像のモデルになったことは間違いない。推測になるが、この18世紀以前のアリア像がマリアがなぜ黒いかというの謎を解く道に導いてくれるように思える。現在、2つの説がある。ひとつは、この18世紀以前のマリア像が、エジプトの豊穣の女神イジス像の姿勢と似ていると言われる。そう言えば、サント・マリ・ド・ラ・メールの黒いサラも2人或は3人マリアに従ってエジプトからやって来たと言われる。もうひとつの説は、木製であったため長い時間を経るにつれて、お香とロウソクの煤のために黒くなったのではないかという説。奈良の中宮寺の弥勒菩薩半跏像同じように年月と共に黒くなった。元々黒いマリア像を作りたければ黒檀などの黒い木を使うだろうが、どうもこの中世では黒檀ではないらしい。

巡礼の道の図

地図を見ると、この道には安全な区間(赤で囲まれた部分)があり、何か特別な方策が試みられている。これは、概して山の中を通るため、追剥などの被害を受けるからなのだろうか?ロット川に近づくと少しの間、川に沿って進む。山の中にあるコンク(12)はわざわざロット川から離れる。この小さな村もまたそこだけで巡礼地になっていた。修道院付属教会名になっているサント・フォワは、3世紀の初めアジャン(47)で殉教した12歳の少女で、その頭蓋骨がすばらしい聖物入れに残っている。866年にコンクの修道僧が誰も知らなかったサント・フォワの骨を持ち帰って、ここにあるらしい。巡礼者たちにも遠回りする価値があったのだろう。

カオール(46)でヴァラントレ橋を渡り、ロット川を離れる。次の目的地はモワサック(82)だ。ここのサン・ピエール修道院付属教会も元より巡礼者には重要だったが、それよりもこの道では唯一サン・ジャック信心会(慈善団体のような組織)が病院を組織し、巡礼者たちの治療にあたった。

そのあと、難関のガロンヌ川を渡れば、目指すはピレネーだ。途中のエール・シュール・ラドゥール(40)には、巡礼者のための病院が2つあったらしい。サン・ジャン・ピエ・ド・ポールまでまだかなりの道のりだが、ガスコーニュの豊かな丘陵地帯を進む。



2016年10月21日金曜日

①Via Tolosana アルル発

この道はアルル(13)から出発してトゥールーズを通るのでこの名前が付いたと思われる。主に湿地帯を通るため比較的平坦なコースだった。

アルルのサン・トロフィーム教会には沢山の巡礼者たちがミサを聞いたに違いない。このトロフィームは3世紀にローマのローマ教会からガリア(今のフランス)に送られた7人の伝道者の一人でその7人が最初のガリアの司教になったとされるが、どんな奇跡を起こしたなどの話はなく、あくまでも伝説の域を出ない人物だ。現在の教会は12世紀に建設されたが、以前に重要な教会があったと思われる。少なくともアルルはミニ巡礼のばしょではなかった。

アルルを出ると舟橋か渡し舟でローヌ川を渡り、広大に広がるカマルグの湿地帯を進むとサン・ジル(30)に到着する。伝説によるとサン・ジルという聖人は7世紀ごろの人で、ミサを執り行っている時、天使が祭壇の上にフランス王の犯した罪を書いた羊皮紙を持って現れ、ミサが進むにつれ、その書かれた罪が消えていったという伝説がある。伝説はあくまで伝説だが、巡礼者を引き付ける話だ。巡礼に旅立つには何か理由がある。サン・ジルはすでにサンチアゴの前に巡礼地であった。

その後、それほど大きな町ではなかったモンペリエ(34)を通り、山側のサン・ギエーム・ル・デゼール(34)に進む。804年にトゥールーズ伯のギヨーム(オック語ではギエーム)ジェローヌという小さな川の上流に修道院を開いた。当初 キリストの十字架のかけらが聖物として納められており、すでに多くの巡礼者を引き付けていた。

トゥールーズまで距離があるが、ローマ時代の道の地中海と大西洋を結ぶ、比較的平坦な道を進んだに違いない。途中カルカソンヌ(11)のサン・ナゼール教会に寄ったかもしれない。トゥールーズのサン・セルナン大聖堂は多くの巡礼者を引き付けたことは建物の大きさ、構造を見れば安易に想像できる。セルナンという人は250年に野生の牛に引きずられて、現在のカピトゥール広場から大聖堂を結ぶ、昔のメインストリート(現在のトール通り)の途中で 息絶えたという凄まじい伝説の残る聖人だ。セルナンはサテュルナンとも呼ばれ、南西部の至る所に町の名前として残っている。どんな人物であったのだろうか。3世紀はガリアでは殉教(すなわち迫害)の時代だが、殉教者が巡礼者を引き付けたのだろうか。そう言えば、パリの聖人サン・ドニも3世紀に殉教したと言われる。首を切られた後、自分の首を持って歩いたという殉教の仕方も凄まじい。サン・ドニも多くの巡礼者を引き付けた。

トゥールーズを西に進むとガスコーニュ地方のオーシュ(32)に着く。現在、巨大なゴシックフランボワイヤン様式の大聖堂サント・マリ・ドーシュがあるが、9世紀頃に同名の教会があったようだ。巡礼者の間では、道中安全にサンティアゴまで導いてくれるマリヤ信仰は殊更重要だったようだ。巡礼の道にはマリア(ノートルダーム)の教会が多い。また、黒いマリア像も多い。黒いマリアについては後述するが、19世紀のマリヤ信仰復活も含めて、キリスト教の真髄を流れている。

ローマ時代のスペインへの道は、教会入口の彫刻がすばらしいオロロン・サント・マリ(64)を通って、ソンポール峠を越えて、スペインに入る。どの巡礼の道もローマ時代の道を少なからず通っている。