この道はル・ピュイ・アン・ヴレ(43)を出発して、中央山塊の山がちのコースを通る。
ル・ピュイにある、最初5世紀に建てられたサント・マリ・マジュール大聖堂は、西ヨーロッパで最初に建設された、マリアに捧げられた教会らしい。町の高台にあるノートルダム・ド・ラノンシアシオン大聖堂には、黒いマリア様が祀られている。この町にはマリア信仰の長い伝統があり、既にこの町を目指すヨーロッパ東方の巡礼者が絶えなかった。
黒いマリア像は、あの聖ルイ王が十字軍遠征から戻ってきて、この町に奉納したという話もあるが、現在あるマリア像はそれほど古いものではないらしい。18世紀の革命前にヴェイラックという人が描いた銅板だと今のような気品のある洗練されたマリア像ではない。しかし、ル・ピュイの黒いマリア像が最初に造られ、他のマリア像のモデルになったことは間違いない。推測になるが、この18世紀以前のアリア像がマリアがなぜ黒いかというの謎を解く道に導いてくれるように思える。現在、2つの説がある。ひとつは、この18世紀以前のマリア像が、エジプトの豊穣の女神イジス像の姿勢と似ていると言われる。そう言えば、サント・マリ・ド・ラ・メールの黒いサラも2人或は3人マリアに従ってエジプトからやって来たと言われる。もうひとつの説は、木製であったため長い時間を経るにつれて、お香とロウソクの煤のために黒くなったのではないかという説。奈良の中宮寺の弥勒菩薩半跏像同じように年月と共に黒くなった。元々黒いマリア像を作りたければ黒檀などの黒い木を使うだろうが、どうもこの中世では黒檀ではないらしい。
巡礼の道の図
地図を見ると、この道には安全な区間(赤で囲まれた部分)があり、何か特別な方策が試みられている。これは、概して山の中を通るため、追剥などの被害を受けるからなのだろうか?ロット川に近づくと少しの間、川に沿って進む。山の中にあるコンク(12)はわざわざロット川から離れる。この小さな村もまたそこだけで巡礼地になっていた。修道院付属教会名になっているサント・フォワは、3世紀の初めアジャン(47)で殉教した12歳の少女で、その頭蓋骨がすばらしい聖物入れに残っている。866年にコンクの修道僧が誰も知らなかったサント・フォワの骨を持ち帰って、ここにあるらしい。巡礼者たちにも遠回りする価値があったのだろう。
カオール(46)でヴァラントレ橋を渡り、ロット川を離れる。次の目的地はモワサック(82)だ。ここのサン・ピエール修道院付属教会も元より巡礼者には重要だったが、それよりもこの道では唯一サン・ジャック信心会(慈善団体のような組織)が病院を組織し、巡礼者たちの治療にあたった。
そのあと、難関のガロンヌ川を渡れば、目指すはピレネーだ。途中のエール・シュール・ラドゥール(40)には、巡礼者のための病院が2つあったらしい。サン・ジャン・ピエ・ド・ポールまでまだかなりの道のりだが、ガスコーニュの豊かな丘陵地帯を進む。
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