Montpellierの発音はモンペリエかモンプリエか?

日本人はMontpellierをモンペリエと大体の人が発音するが、フランス人はモンプリエという人が多い。フランス語の発音の規則からするとモンペリエの方が正しいと思われるが何故だろう。他にもこういう例がある。Auxerre(89)をオーセールと発音したり、オークセールと発音したりす...

2016年11月22日火曜日

地中海世界

La Méditerranéeを読み終えて、ジブラルタル海峡からシリアの海岸までにある巨大な内海の岸辺、小島、海、町、人、船が見えたような気がする。これまでどれほどの歴史家、作家、エッセイストなどが地中海について書いただろうか。知る限りでもカミュ、ジオノ、ダレル、シャンソンなど西洋側から見た視点だが、アラブ世界にも同じほどの作品があるのだろうか。ローマ人が呼んだMare Nostrumは広大なまた魅了的な世界だと改めて感じる。

2016年11月10日木曜日

新しい州名「オキシタニー」

2016年9月30日から2つの以前の州ラングドック・ルシオンとミディ・ピレネーが一緒になって、「オキシタニー」という名前が付いた。元来「オキシタニー」というのは、フランス北部のオイール語に対して、南部のオック語を話す地域の文化圏の呼び名である。住んでいる人・言語はオキシタン、最近売り出しの化粧品メーカーのオキシタンヌは女性形だ。中世ラテン語が崩れて変化し、北ではフランス語のouiをオイールといい、南ではオックといったことからその名前が付いた。

新しい州名の13県は、もちろん「オキシタニー」だが、地域全体の36%に過ぎない。そこが今問題になっている。残りの64%の地域、都市でいうとポー、ボルドー、リモージュ、クレルモン・フェラン、マルセーユ、ニースなどで「オキシタニー」文化の伝承に関わっている人、関わった人に混乱を引き起こすということである。更にカタロニア(スペイン側)、ピエモン(イタリア北部)も関係してくる。元々「オキシタニー」はオック語を話す地域の呼び名であって、行政単位にはふさわしくない。中心がないのである。

他の地域の州名例えばヌーヴェル・アキテーヌ(旧名:アキテーヌ、リムーサン、ポワトゥー・シャラント)などは創造的でうまく付けている。南フランスの文化的伝統からするとこの命名はやや不器用だったのではないか。

2016年11月7日月曜日

④Via Turonensis パリ発

パリ(75)のシテ島からサン・ジャック通り(ローマ時代のメインストリート)を南に進む一番遠い道は、トゥールを通るためにこの名前が付いた。パリは巡礼の時代すなわち11~13世紀には人口5万人前後の町であった。

オルレアン(45)からロワール川に沿ってブロワ(41)を通ってトゥール(37)に至る。トゥールではサン・マルタンにゆかりの場所を回ったのだろうか。この聖人は、4世紀の人ではじめてガリアの地で修道院活動を行ったと言われる。ローマの軍人であったが、凍えた乞食に自分のマントを与えたという故事から、施しの聖人と見なされている。ヨーロッパでは広く名前が伝わっていて、フランスの準守護聖人にもなっている。

ポワティエ(86)では、サント・ラドゥゴンドとサン・ティレールが崇められた。ラドゥゴンドは6世紀の人でフランク族王のクロテールの王妃にされたが、逃れて修道女になり、祈祷所とフランスはじめての病院を建て自ら病人の世話をした。その後、ポワティエにノートルダーム修道院を建て、数々の病気治癒の軌跡を起こした。一方イレールの方は4世紀の人でサン・マルタンと同時代の人で実際サン・マルタンはポワティエまで来ている。聖人としては、人民にカトリックの教義を説いたり、聖書注釈などを書いた理論家であった。様々な作品の執筆をしながら、最後はガリアでは稀なオルトドクスの教会の大司教になった。

メル(79)にもサン・ティレール教会があるが、正面の建築様式が似ていて、やはりオルトドクスの教会だったのだろうか。それともサン・ティレールの遺骸がここにもあったのだろうか。メルからポンス(17)までの行程は、それぞれの区間が30㎞以下の距離で1日に歩ける距離だったのだろうか。

オルネー(17)にある、サン・ピエール教会は、古代ローマ時代からある墓場の中に立っている。また、墓場にはこの地方独特のホサナ十字架と4人の使徒の石像が立っているようである。4人の使徒とはヨハネ(北)、パウロ(南)、大ジャック(東、巡礼の恰好をしているらしい)、ペテロ(西)だ。教会の壁の彫刻は大分修復されたようだが、ペテロが殉教したと伝えられる逆さ十字架の像や数々の興味深い彫刻が残っている。

サン・ジャン・ダンジェリーには、9世紀に洗礼のヨハネの遺物を祀った修道院があったと言われるが、バイキングによって破壊された。

サント(17)にはサン・トゥトロップ大聖堂があるが、クルニー修道院が管理していて、何人かの修道僧が巡礼者たちを受け入れたようだ。

ポンス(17)は中世の城壁に囲まれた町だったが、巡礼の人たちのための病院があった。元々病院は城壁内にあったようだが、日が暮れると安全のために城門を閉じてしまうため巡礼者たちは翌日の朝まで待たねばならなかった。また、伝染病が城壁内に広がることを恐れて、後に領主が城壁の外に病院を建てたとされる。また、この病院は巡礼者でなくても受け入れ、その他寝るところと食事などを提供していた。捨て子のために病院入口には籠が置かれていたという話もある。

ボルドー(33)では、サン・タンドレ大聖堂、サン・スーラン教会、サン・ミッシェル教会などに巡礼者たちは立ち寄ったと思われるが、詳細はわからない。また、サン・ジャック病院があり、治療を受けた。この町ボルドーは1154年イギリス王朝の支配下に入ったが、巡礼者に何か影響があったのだろうか。

ソルド・ラベイ(40)では、サン・ジャン修道院に泊まった。水量の多い2つのガーヴ(川)を渡るには待つこともあったかもしれない。川を渡れば目指すはサン・ジャン・ピエ・ド・ポールだ。




2016年11月3日木曜日

③Via Lemovicensis ヴェズレー発

この道は、リモージュ(87)を通るためにこの名前がつけられた。リモージュを越えれば、ピレネーまでは平坦で肥沃な地帯を通る。

出発地点のヴェズレー(89)にあるマドレーヌ修道院は、11世紀から13世紀にかけて、西ヨーロッパでのマドレーヌ(マグダラのマリア)信仰の中心として、すでに多くの巡礼者を集めた。あのサン・ベルナール・ド・クレルヴォーもここで第二回十字軍を説いたと言われる。北東フランスからやってきた信者たちは、ここでミサを聞いて中央山塊をピレネーに向かって行った。

出発後、ブルジュ(18)経由の道とヌヴェール(58)経由の2つに分かれる。ブルジュを通る道は、シャリテ・シュール・ロワール(58)のノートルダーム修道院に立ち寄らねばなかった。クルニー修道院の影響下当時ヨーロッパで大きな勢力を持った修道院であった。当初パリのノートルダーム大聖堂の設計を真似たサン・テティエンヌ大聖堂には敬虔な信者や巡礼者が訪れた。

ヌヴェール側の道では、ヌーヴィ・サン・セピュルクル(36)にあるサン・テティエンヌ教会は、エルサレムにあるキリストの墓を納めたサン・セピュルクル教会を真似て、十字軍から戻ってきたディオルス(36)の領主が建立したと言われる。

サン・レオナール・ド・ノブラ(81)のサン・レオナールという聖人は、あくまでも伝説の域を出ない人だが、聖人伝によるとフランク族の王クロヴィスと同時代の人で、クロヴィスのようにキリスト教に入ったと伝えられる。また、クロヴィスが跡取りに授かるように祈って、それがかなえられた褒美としてノブラの地に土地を与えられ、修道院を開いたと言われる。サン・レオナールは、牢屋の囚人を解放したり、お産や家畜の病気を和らげる力があると信じられていた。

ペリグー(24)のサン・フロンという聖人は、伝説の人物だが、聖人伝によると1世紀ごろペリゴールで生まれ、エジプト、ローマと遍歴した。ローマでサン・ピエールに会ったと伝えられている。ペリゴールに戻り、この地の福音伝道者になった。

その後、バザス(33)を通って、サン・スヴェール(40)のクルニーと並ぶ大修道院に向かった。修道院に泊まった巡礼者たちは、疲れた体を休め、様々の恩恵に浴したと思われる。あとはサン・ジャン・ピエ・ド・ポールを目指すばかり。