Montpellierの発音はモンペリエかモンプリエか?

日本人はMontpellierをモンペリエと大体の人が発音するが、フランス人はモンプリエという人が多い。フランス語の発音の規則からするとモンペリエの方が正しいと思われるが何故だろう。他にもこういう例がある。Auxerre(89)をオーセールと発音したり、オークセールと発音したりす...

2016年9月27日火曜日

フランス町歩き⑤ ペルージュ Pérouges(01)

リヨン(69)から車で45分ほどのところにフランス美しい村の一つで中世の街並みが残るペルージュがある。観光局の前から緩やかな坂を上ると左側に教会がある。この教会は側面の壁がそのまま城壁の一部になっていて、銃眼が教会の内部から覗ける。教会の横が城門になっていて、教会の入口は城門の外になる。上の城門と下の城門があって、下の城門は城壁の反対側のやや下ったところにある。

上の城門を入るとそこがロンドの通りといい、城壁の内側をぐるっと回る道だ。左に行っても右に行っても同じだが、人がいる左側の道を行く。少し行くと右側にがガレット・ド・ペルージュの調理場が見えた。ガレットといってもピザのように厚い。ガレットよりも調理場がなんとなく中世風で中世はこんな風に店を構えていたんだなと思った。

狭い路地を覗くと先に広場が見える。菩提樹広場(Place de la Tilleul)だ。真ん中に菩提樹が一本生えている広場だが、ここが町の中心だ。今はカフェとレストランがあるが、あまり人はいない。菩提樹の下でタバコを一本吸った後、広場に面した建物を一つ一つ見て回った。建物の軒下にトウモロコシが沢山干してあった。壁をつたわるブドウの木には白ブドウがなっていた。

中世の町で静かなひと時を過ごした。

2016年9月1日木曜日

サンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の道 Camino francés

スペイン語のサンチアゴはフランス語でサン・ジャックと同じだ。 9世紀にキリストの弟子12使徒の一人Jacques le majeur(12使徒にジャックが二人いるので大ジャックと区別する)の墓が見つかり、それ以降ヨーロッパ中から巡礼者たちが集まるようになり、ローマ、エルサレムと並び3大聖地になった。どうしてサン・ジャックの墓ということが分かったか疑問だが、ペラージョという隠遁者が神の啓示を受けたというから本当なのだろう。このジャックはヘロデ王に殺されたという話もある。とにかく中世にキリスト教信者が目指す聖地になった。

12世紀のエムリー・ピコーという修道僧が書いたと言われる『巡礼ガイド』によるとフランスで ピレネー山脈に至るサンチアゴの巡礼路は4本ある。サンチアゴへの道参照。
サンチアゴへの道へのリンク
4本の道のうち3本は、サン・ジャン・ピエ・ド・ポール(64)からロンスヴォー峠(1057m、スペイン)を通ってピレネー山脈を越える。残りの1本はソンポールの峠(1632m)を越えてスペインに入る。地図でピレネー山脈を見ると大西洋岸と地中海岸を除いてフランス側スペイン側ともに3000m級の山が聳え立っている。ローマの道が通っていた地中海側はスペインに入ってからイベリア半島を縦断することになり、かなり遠回りになる。従って、巡礼の道がバスクを通ったのは当然かもしれない。

これらの巡礼の道が形成されたのには訳がある。いくつかの通過地点は、サンチアゴへの巡礼が始まる前からミニ巡礼地として沢山の信者を集めていた。それらのフランスの巡礼地をこれから見ていきたい。

2016年8月27日土曜日

海岸・プールでのブルキニの問題

                                                 プールでブルキニ
  
地中海沿岸のいくつかの市が海岸・プールでのブルキニの着用を禁止する条例を出した。それに対し国家評議会はこれらの市の条例は「信教と個人の自由という基本的自由を、明確かつ違法に侵害する」という理由で無効であるという見解を出した。市の禁止の理由が「宗教を誇示し、治安を乱す」などであるが、よく写真で見る19世紀から20世紀初めの水着を今着て海岸やプールにいたらどう思うだろうか。どちらも完全に浮いている。ブルキニの場合、宗教的理由らしいが、コーランには海岸やプールに行くなとは書いてないのだろうか。それほど宗教が人間の行動を規定するなら、宗教は不幸しか与えない。アラブ人の生活もすでに欧米化して久しいが、ヴァカンスを取ったり、サッカーを観にいったり、ほとんどフランス人と同じ生活をし、考え方もフランス人とそれほど変わらないのに、一部の在仏アラブ人がワザとこんなことをやっている。「信教と個人の自由」を尊重するあまりフランスの社会にはとんでもない「病原菌」が入り込んでいる。

長寿なオリーブの木

ガール県(30)にあるローマ時代の水道橋ポン・デュ・ガールの左岸にある3本のオリーブの木は1000年以上生きていると言われる。水道橋が約2000年前に建設されて、ニーム(30)まで水を運んでいた。この3本のオリーブの木は、もともとここに生えていたのではなく、1989年のフランス革命200年祭の時スペインからプレセントされたらしい。今でもちゃんと実がなる。ポン・デュ・ガールの近くには沢山のオリーブ畑があるが、ローマの水道橋とオリーブの木のある白茶けた風景とよくマッチする。

1956年の2月にフランス全土を異常な寒気が襲った。南仏でもエクス・アン・プロヴァンス(13)でマイナス20度まで達した。その時ほとんどのオリーブとブドウの木がやられ、ほとんど全滅した。そのため現在生えているオリーブの木は1956年以降のものだ。しかし、この冷害を逃れたオリーブの木が残っている。この木は比較的暖かかったと思われるロックブルンヌ・カップ・マルタン(06)にある。(写真)

この木は2000年以上生きており、高さが20m、今でもオリーブの実をつける。この木はまたフランスで一番古い木になるかもしれない。2000年前と言えば、ポン・デュ・ガールが建設されたアウグスチヌスの時代でPax romana「ローマの平和」と呼ばれた。

世界にはもっと古いオリーブの木がある。ギリシャのクレタ島のヴヴェスにある木は3000年以上たっているといわれる。そして、今でも実をつける。古代からオリーブオイルの産地として知られるクレタ島ならではの話だ。オリーブの木は病気や山火事に強く、様々な条件さえ整えば長生きする樹木だ。

2016年8月21日日曜日

Notes - VOYAGE

...je ne peux m’empêcher de mettre en doute qu'il existe d'autres véritables réalisations de nos profonds tempéraments que la guerre et la maladie, ces deux infinis de cauchemar.(p.418)

2016年8月10日水曜日

フランス町歩き④ カンボ・レ・バン Cambo-les Bains(64)

ホテルを出ると緩やかな坂道の両側に閑静な住宅が並ぶ。名前の通り保養地として知られ、昔は湯地客が訪れたと想像する。バスク地方にある小さな保養地には人影も少なく、夏なのに寂しい感じがする。あのシラノ・ド・ベルジュラックの作者のエドモンド・ロンスタンは、la maison de ses rêves(夢の家)を20世紀の初めにこの町の高台に建てた。ミニヴェルサイユのような庭園があるヴィラ・アルナガは、現在ロンスタンに関する博物館になっている。


夜、町のレストランChanteclerでバスク料理のAxoa de veau(axoaとはバスク語で細かく切った肉をいう。一種の子牛のソテ)を食べた。初めて飲んだバスク産の白ワインは軽くて爽やかだった。

2016年7月21日木曜日

社会からの疎外者とイスラム急進化

ニースのテロのチュニジア人は精神的に異常があったようだ。チュニジアではエンジニアを目指していたようだが、フランスに来てある日急にフランス社会に対する憎悪から犯行に及んだと想像する。何かしらの憎悪がなければああいう犯行はありえない。イスラム急進化という宗教的理由だけでは説明できない。確かにフランスのテレビでコンサートとかお祭りを見ていると一種のジェラシーを感じる時がある。第2次大戦のパリ解放の映像を見てもそうだが、フランス人は自分の気持ちを直接表現する。表現力に欠ける日本人にはジェラシーを感じても当然かもしれない。

自分の感情を直接表現するあまり、憎しみや怒りを抑えられない時がある。デモの時のカッスール(デモとは関係なくものを壊す者たち)は、自分が社会から疎外されいるという意識からアナーキスト的行動に出る。夫の家庭内暴力もゾラが書いているように19世紀からフランスの隠れた社会問題になっている。喜びや悲しみの表現ならまだしも、憎しみや怒りの対象が社会に向けられた場合不幸が生じる。

11月13日のパリのテロも犯罪者たちは、パリ郊外の不良で日ごろ社会に不満を持っていて、そこにイスラムの過激な考えを吹き込まれて、自分ではよくわからないまま、イスラムのヒーローとして命を落とした。死んでしまえばすべてが終わることなどわからなかった。

フランスの社会で疎外されている者は多い。社会の原型であるはずの学校ですでに規律についていけずに疎外され不良化する。親も無関心で手当てをもらうことだけを考えている。人との付き合いに不慣れな者は益々孤立する。人から学ぶということがない。だから暴力や犯罪に走ったりする。その点でイスラムの過激な考え方は、そのどうしようもない状況を打開し、反社会的な自分の欲求の実現の場を与えてくれる。人間誰でも時に疎外感を感じることはあるが、自分から社会に戻ろうとすることのできない人間は不幸な人間だ。

2016年7月20日水曜日

ポルトガル町歩き

一か月忙しかった。ポルトガルに行ったり、バルセロナに行ったり、リヨンに行ったり・・・

ポルトガルではポルトとリスボアに行ったが、概してポルトは豊か、リスボアは貧しいという印象を受けた。言葉はあまり通じなかったが、ポルトガル人は平和的な国民に見えた。 町には変な胡散臭いチンピラは見当たらず、みんな仕事をしていた。案内所のステファンヌに教えられた、ポルトガル最初のレストランは、日本に昔あったバラック風の食堂で、魚や肉のフライをポテトといっしょに出してくれた。値段は非常に安い。家族経営でお父さんと娘さんがサービスをして、お母さんと叔母さん(お母さんの姉妹?)が料理をつくっていた。後でステファンヌも食事にやってきた。

リスボアでは町を沢山走っている三輪車を借りた。運転手はラファエルという名で英語を話した。市内は丘になっていて、坂が多く、観光するのには便利だ。かなりスピードを出して、かって知ったる町を案内してくれた。町の近くを流れるタホ川は川幅がとてつもなく広く海のような印象を受けた。ポルトはドゥーモ川だが小舟が沢山通っていて水も汚い。

ポルトに来る前にあこがれのサンティアまで足を延ばした。期待にはずれ。町は近代的建物が立ち並び、古臭い教会だけが浮いていた。巡礼の時代の高揚は今はない。それでも近くのパラドールの中庭でビールを飲んで静かな時間を過ごした。

もう一つの巡礼地ファティマは、3人の羊飼い(男一人、女二人)が1917年にマリア様を見たという聖地だ。ルルドのように沢山の信者が訪れていた。とても暑い日だった。

2016年6月19日日曜日

フランス町歩き③ ソーリュー Saulieu(21)

ホテルを出ると前を街道がまっすぐはしっていて大きなトラックが騒音をあげてひっきりなしにとおる。街道を越えて50メートル先には高い城壁が見える。城壁の下は狭い公園になっていて、噴水から大量の水が噴き出している。城壁の上にはサン・タントシュ大聖堂の鐘楼が少しだけ頭を見せている。

今晩の夕食のレストランを見つけなければならない。城壁の左側の緩やかな坂を登りだした。Café Le Nord 小さなテラスでひとり客が座っている。坂を登りつめるとフランスの田舎によくある商店街通りだ。道の反対側から女の人が僕の前を歩いていた男の人に声をかけた。「夕べ彼または彼女の家にいったの?」「忙しくて行けなかった。」このふたりはなぜか学生時代からの旧友なのだろうと思った。

店のウインドーを見ながら少し歩くと市庁舎が見えてきた。市庁舎のところを右に曲がるとロマネスクの教会サン・タントシュが見えてきた。教会はがっしりしていて、ふたつある鐘楼も重々しい。アントシュという聖人は2世紀ごろ他の二人とこの場所で殉教したらしい。 教会に建物が隣接していておかしな感じだ。やはり教会は独立していた方がいい。

教会の脇を通っていくとまた街道に出た。結局適当なレストランは見つからなかった。

2016年6月9日木曜日

フランス町歩き② リブルヌ Libourne(33)

ガソリンスタンドのある大きなロータリーでバスを降りた。そこから長いエスプラナードが伸びている。高い建物も木もないので平らな広い道がただ伸びているような印象をうける。空には午後の終わりの太陽が輝いている。歩いていくと若者の集団が、ベンチや階段や道の真ん中に通行人には無関心にたむろしている。Café du Lycée...Lycée Max Linder...今晩の食事の場所を見つけなければ。

Hôtel de Franceは名前の通り昔風のホテルだった。いつもタバコを吸っている50代の姉妹がホテルをやっている。階段の上ると廊下には中くらいの古い絨毯が何枚もひかれていた。2つベッドがある、ちいさな部屋は、鎧戸が半分閉じられているので薄暗い。テーブルの上にはガラスの灰皿があった。今どきのホテルでは驚きだ。

次の朝、ホテルからモンテスキュー通りをまっすぐいくとマルシェに出くわした。広場が敷石をひく工事のため、市場も室内市場も混とんとしている。町には小さなひなびたワインバーが多い。大きな塔が遠くに見える通りに出ると目の前はドルドーニュ川だ。まだ朝早いため、対岸は霧でかすんでいた。 
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リブルヌは人口2万4千人のジロンド県(33)の町で、ドルドーニュ川が近くを流れている。

2016年5月27日金曜日

この国のストとデモ(続き)

フランス中で「労働法改正」法撤回を求めて多くの配油所が占拠されているため、あらゆるガソリンスタンドに益々長い列ができている。これは今やガソリン欠乏という問題だけでなく、フランス経済に大きな影響を与えている。ニュースでは、大体郊外にある植木屋さんや車で行く海岸線の行楽地で客足が減っていると報じられている。植木と行楽より最優先の仕事場に行くためのガソリンが必要だからだ。日用品、特に食料も同時に確保しなければならない。仕事場が離れていたり、学校に子供を車で送らねばならない家庭では、他の交通手段がない限り生活に困難をきたす。大変なことになった。

この組合の動きの元凶がCGT(1895年創立)だ。特に数か月前に書記長になったPhilippe Martinez(写真)が曲者だ。 組合内混乱のため弱体化していたCGTを立て直すために選ばれた書記長。彼は極左派と知られ、CGTの鉄鋼関係の組合活動からのし上がった人だ。この人が諦めるかヴァルツ内閣が法案を放棄しなければ、このままの状況が続く。これほど経済に大きな犠牲を与えて反対する法案とどんなものだろうか?それほど労働者全体の生活に影響を与える法案なのか。労働省によれば労働者の約8%が何かしらの労働組合に加入している。多く見積もって、倍としても労働者全体の声を反映しているとはいえない。言ってみれば、デモの時のCasseurと同じようなものだ。ただ、CGTの方は民主主義の権利という武器を使って自らの行動を正当化 するのがよくない。



2016年5月19日木曜日

この国のストとデモ

この国ではストとデモが頻繁に起きるので前もってニュースなどを見て準備しなければならない。国鉄が18,19日にストだし、ノルマンディー地方ではTOTALの従業員が配油所をブロックしたため、ガソリンスタンドでは長い車の行列ができている。それぞれの要求内容はどうでもいいが、前者は公共交通だし、後者はストではなく、一種のデモだが生活に直接影響を及ぼす。国鉄の場合は毎度のことで、駅員に食ってかかる人は非常に稀で利用者のほとんどが諦め顔だ。ガソリンの方も列ができる原因にはみんな無関心のように見える。

モンペリエでもデモがあるとトラムのダイヤが大幅に乱れる。デモ隊が必ずコメディー広場を通るためだ。デモがあると利用者は浮かない顔をして来ない電車を待っているか、歩き出すかのどちらかだ。

ここのところ政府の「労働法改正」に反対して何度もデモがフランス中で起きている。その度によくないのが、デモ隊と全く関係ない人たち(Casseur) が機動隊を挑発したり、どさくさに紛れてATMを壊したり、店のガラスを割ったりして商品を盗んだりする。美しい民主主義の権利のデモが、まるで内戦でも起きているように思えてくる。デモを組織した組合は恥ずかしくないのだろうか。少なくともこれらの事件を起こした元は彼らなのだから。

フランス人は共和制の元で自己主張の強い人種だが、自己主張が強いあまり、他の市民を無意識にいじめている。他の人を害する自由の主張は、共和制の3原則の「自由」ではない。

2016年5月13日金曜日

Notes - VOYAGE

Comme si j'avais su où j'allais, j'ai eu l'air de choisir encore et j'ai changé de route, j'ai pris sur ma droite une autre rue, mieux éclairée, ≪Broadway≫ qu'elle s'appelait. (p.192)

 

2016年5月5日木曜日

あまり見ない500€札がなくなる

ヨーロッパ中央銀行が4日500€札の発行をやめることを決めた。2019年以降発行されなくなるが、お金としては使えるようだ。

確かにあまり見ない500€だが、外国人だからというだけでなく、ヨーロッパ連合の半分以上の人たちが見たことがない。ではどこで使われているかと言うと、麻薬取引や違法商売などの「汚い」お金や最近指摘された金持ちの税金逃れ、また賄賂などに使われている。普通の人に間違って回ってきても余程高い物を買わなければ使えない。店の人が警戒しなければ。500€が使うお札でなくてただ闇で流通するお金といえる。また、百万ユーロが50€だと重さ22kgになるのに対し、500€では2.2kgになるから、小さなカバンで約1億3000万円が運べるわけだ。

フランだった時、パスカルの顔が載っている500フランでも「おつりがない」と言われてなかなか使えなかったことを覚えているが、それよりずっと大きい500€はなくてもいいかもしれない。ただ、500€の裏の絵が2004年に建設されたミヨー大橋(モンペリエから車で約1時間)なので、なくなるとやや寂しい。

2016年5月1日日曜日

州の統合




フランス本国の州は2015年までコルシカ島を含めて22あったが、2016年1月1日から13になった。かなり広い地域が1つの州になったため、歴史的・文化的な違いが州の中に出てきて、統合した州は名前を変えなければならない。4月29日以降"Grand Est"(大東部?)となった。アルザス・シャンパーニュ・アルデンヌ・ロレーヌでは、歴史的変遷があって、独立ムードのあるアルザス地方のストラスブールで州の名前に関する住民投票を要求するデモが起きた。

モンペリエのあるミディ・ピレネー・ランsグドック・ルシヨンもまもなく決まるようだが、8つの名前が挙げられている。Languedoc, Languedoc-Pyrénées, Midi, Occitanie, Occitanie-Roussillon, Pays d'Oc, Pyrénées-Méditerranée et Terres d'Oc

個人的にはこの州がピレネー山脈をかなりカバーしているのでLanguedoc-Pyrénéesが好みだが、さてどうなるでしょう。

2016年4月29日金曜日

南仏の食材(3)トマトtomate

夏においしいトマト
トマトはにんにくと同様世界中で食べられているが、16世紀にメキシコからスペイン人によってヨーロッパにもたらされた。当時「日の沈まない国」と言われたスペイン帝国の本国とスペイン領だった南イタリアから地中海沿岸に広がった。北フランス・パリにはフランス革命1周年記念大会の時、上京したプロヴァンス人がもたらし、レストランでも出すようになった。

フランスでは生産量はそれほど多くはないが、南フランスではいろんな形で料理によく使われる。生で食べたり、オーブンで焼いて食べたり、ソースに使ったり、イタリア風の乾燥トマトもある。生の場合、オリーブオイルと相性がよく、ニース風サラダ、トマト・モッツアレラ、カマルグ風お米のサラダなど熱い夏にはいい。焼いたとまとでは、トマトファルシ(トマトの肉詰め)、にんにくとパセリとパン粉をのせて焼いただけのトマトプロヴァンサルがおいしい。ソースと言えば、ソースボロニェーズ(日本のミートソースに似ている)が一番ポピュラーだが、カタロニア風、プロヴァンス風、ナポリ風ソースみんなトマトソースだ。家庭では、缶詰のソースが使われるが、凝縮トマトソースは欠かせない。乾燥トマトはイタリアに行くとアンティパスタで食べるが、やや塩気があって、ハーブとオリーブオイルと共に食べる。

子供の頃、トマトは果物か野菜かと考えたことがある。植物学的には子房が変化したものだから間違いなく果物だ。ただ、料理学的には、他の果物のように甘さがないので、塩を加えてつけあわせあるいはソースで野菜として扱われる。フランスのスーパーでは野菜果物は 自分で好きなだけ袋に入れて秤で計るが、トマトは野菜の部類に入っている。

最近様々なトマトが出ているが、Cœur de bœuf(牛の心臓)というトマトがある。縦に筋が入っていて、水分がやや少なく変わった味だ。

2016年4月24日日曜日

フランスの県の話

現在フランスには101の県があってアルファベット順にAから番号がついている。車のプレートには県の番号ついていてどこからきた車かわかるようになっている。101とはやや中途半端だがコルシカ島が県としては20番だが、コルス・デュ・シュド(2A)とオート・コルス(2B)に分けられるから一緒にすれば5つの海外県を合わせてちょうど100になる。昔は中学校で県の番号を覚えさせたと聞くが、100もあるとなかなか覚えられない。自分が住んでる県の周りは覚えられても、行ったことのない遠い県はすぐ忘れてしまう。日本の県名と違って数字を使うために抽象化されているためだ。

またフランスの県の名前は多くの場合、その県を流れている川の名前からつけられている。ストラスブールがある県は、バ・ラン(67)。ランはフランス語でライン川をこう発音し、バは下流を意味する。モンペリエのある県はエロー県(34)、エロー川が流れている。かのローマ時代の水道橋ポン・ド・ガールがかかっているガルドン川は、元はオキシタン語からきているらしいが、県名のガール(30)と同じとみなしていいようだ。

南フランスで面白い例外が二つある。一つは、アヴィニョンのあるヴォークルーズ県(84)で、山の中腹にあいた穴から水があふれ出ている(フォンテーヌ・ド・ヴォークルーズ)。水藻が一面に生えたきれいな川はソルグ川となり、一帯を潤している。ここでは川の名前ではなく、泉の名前が県名にあなっている。ヴォークルーズとはラテン語のVallis clausa(閉じた谷)からきている。二つ目は、トゥーロンが県庁所在地のヴァール県(83)だ。確かにヴァール川という川はあるが、県内を流れず、隣のアルプ・マリティーム県(06)を流れている。この例はフランスの県では例を見ない。これは、1860年に行われた、フランスへの帰属を決める住民投票(男だけ)で当時のニース伯爵領とグラース郡が新しい県になったためだ。グラース郡の地域がヴァール県に食い込んでいる。

最後に、県はフランス革命の時に制定されたが、今でも5つの海外県が世界中に散らばっている。その中で仏領ギアナ(973)はジャングルばかりとはいえ、広大な領地だ。よく人工衛星の打ち上げでニュースなどで紹介される。本国の県と同じように同じ郵便局があり、ユーロが使われている。アルジェリアも1962年の独立まで県がいくつかあって本国の県と同等に扱われた。

2016年4月17日日曜日

フランス町歩き① ペゼナスPézenas(34)

ペゼナスの町は南仏エロー(Hérault)県(34)にある町だ。13世紀にはじまり、18世紀まで年3回~5回の定期市で栄えた。その当時の定期市としては、北のシャンパーニュ、南のペゼナスと言われたほどだった。15世紀の大商人あのジャック・クール(Jacques Cœur)もモンペリエに店を開いた後、定期市のためにこの町に住んでいた。モンペリエには現在ジャック・クールという市場がある。

17世紀の喜劇作家・役者のモリエールもこの町と関係が深い。アルマン・ド・ブルボン公に保護され、劇団を引き連れて地方を巡業していたモリエールは、15世紀以降2世紀以上ペゼナスで開かれていたラングドック三部会の人たちのために1653年に劇団を連れてやってきた。演劇といっても現在のようにオペラ座がいたるところにある時代と違い、上演はすべてプライベートで行われた。ブルボン公がベゼナスに住んでいたのでやってきたのだろう。

 町の歴史地区を歩いていると古い建物(14~16世紀)がかなり残っていておもしろい。定期市があったため、ユダヤ人地区もある。それらの建物の1階には小さなブティックが店を並べていて、見て回るだけでも楽しい。町のあらゆるケーキ屋さんで売らているのがパテ・ド・ペゼナス(写真)だ。変な形をしているが、糸巻きの形らしい。パテだから食事の最初に白ワインといっしょに食べるようだが、味は甘くてしょっぱい味だ。食べる時少しあたためろとケーキ屋の女将に言われた。

2016年4月14日木曜日

南仏の食材(2)にんにくail

にんにくは古代エジプトでは紀元前3750年頃から栽培されていたらしい。古代ギリシャではオリンピックの運動選手が記録を伸ばすために好んで食べ、古代ローマでは遠征中の兵士に耐久力をつけるために食べさせた。ヨーロッパに広がるのは、十字軍遠征から帰ってきた人たちのおかげらしい。万能薬とみなされ、中世ではペストや悪魔にとり憑かれないとみなされた。また、匂いが強いため、14世紀のスペインの王様は、にんにくを食べた騎士は1か月間宮廷に出入りを禁止したという話もある。

地球上のほとんどの国で生産されているが、中国、インド、韓国が生産量が多い。 フランスでも 産地は沢山あるが、白、むらさき、ピンク、燻製(ノール県アルルー)など種類も多様だ。個人的好みを言えば、タルヌ県ロートレックのピンクのにんにくが好きだ。小粒で身が締まっていて、匂いはやや強いが味がある。

料理ではオリーブオイルと一緒に使われるが、南仏ではブイヤベース、アイオリ、セット(エロー県の漁港)風ルーユ(ブーリード)など魚料理、またドーブ(牛肉のワイン煮)にも使う。まだ食したことはないが、にんにくのスープもあるらしい。カタロニア風エスカルゴではトマトソースの中ににんにくが入っている。タパスのPan con tomateもおいしい。

【遊びのフランス語】フランス語では複数の場合、SかXを最後につければいいが、このにんにく(ail)は変わっている。ただSをつけてもいいが、マルシェなどの表示ではAulxと書かれている。これでオーと発音する。オーという発音する単語で骨Osの複数形がある。これも変わっていて、単数ではオスと発音する。

2016年4月12日火曜日

フランス(語)雑記①

2013年にフランス人の7%がフランス語を書くのと読むのにに重要な問題があるとINSEEが報告している。我々日本人にとっては、フランス語を習い始めたとき、何でフランス語は発音しない字があったり、文法の規則が複雑だったり感じたと思う。フランス人にとってもフランス語は少なくとも7%の人たちには難しい。

同じラテン語を起源に持つスペイン語やイタリア語に比べても余分な規則が多い。例えば、フランス語は冠詞をほとんど必ず名詞の前に付ける。しかも定冠詞や不定冠詞だけならまだいいが、部分冠詞なんて変な冠詞がある。スペイン語やイタリア語はない。 部分冠詞なんていらないんじゃないのという人もいるかもしれない。とにかくフランス語には余分なものが多い。日本人にとってはこの余分なものがフランス語を習う時に障害になっている。

この余分なものはフランスの社会では生活に必要なのかもしれない。芳香を放つローソクは、教会のローソクと違って「遊び」だ。他にも「遊び」がある。「遊び」になるものはもしガチガチの合理主義からみれば余分だ。

フランス語にある「遊び」は、言語学的変化がなせる業なのか、それともフランス人の好みか。無意識にフランス語をつくるのはフランス人だが、7%の人たちはなぜついていけないのか。フランス語は規則が多すぎるからかもしれない。

2016年4月8日金曜日

De Casanova

...j'ai pour la première fois de ma vie à l'âge de trente ans appelé à mon secours la philosophie dont j'avais tous les germes dans l’âme...  
                                     
 ・・・人生30歳にして初めて心の中に芽生えていた哲学に救いを求めた・・・(拙訳)


この一節はヴェニスの監獄ピオンビに収容され時のものだ。あとでそこを脱走するのだが・・・この「哲学」という言葉が訳すのが難しいが、何を意味するのだろうか?単に「新しい考え方」なのか。この種のフランス語の言葉が本を読む時、漠然と把握したつもりで逃げていく。母国語でない人間にとっては宿命か?

数日後・・・カサノヴァは18世紀のパリ にやってきた。副王とみなされていたド・ショウワジュールやポンパドール伯爵夫人が出てくる。その会話からそれぞれの人柄が見えておもしろい。勿論そのままの言葉を使ったとは思えないが、NHKの大河ドラマみたいだ。ルイ15世時代は、3つの戦争が原因でひどい財政危機になる時代だが、カサノヴァはその社会を生きていく。

2016年4月7日木曜日

南仏の3つの食材(1)オリーブオイルhuile d'olive

南フランスだけではなく、広く地中海沿岸で広く料理に使われる3つの食材といえば、(1)オリーブオイル、(2)にんにく、(3)トマトだ。これから3回にわたって歴史、生産と生産地、料理などを調べてみたい。

 オリーブオイルは、古くギリシャ時代から料理、コスメティック(化粧品)などに使われていた。紀元前3世紀に哲学者のテオプラトスがオリーブオイルの匂いにつぃて語っているようだ。現在のフランスでの生産量は、スペイン、イタリア、ギリシャなどに遠く及ばないが(世界21位2013年)、AOC,AOPなど産地品質保証名が8つある。ニオンス(Nyons)、レ・ボーの渓谷、エックス・アン・プロヴァンス、オート・プロヴァンス、プロヴァンス(どこ?)、ニース、コルシカ島、ニーム。

 さて料理だが、乳牛のいない南フランスではバターよりもオリーブオイルがすべての料理に使われる。サラダ、パスタ、肉野菜の料理それから揚げ物にも使われる。アイオリ、ルーユ、アンショイヤードなどの料理のソースもオリーブオイルがベースだ。

 いつか生産者の人がいっていた。「他のヒマワリの油などと違って、オリーブオイルは、種と果実から作られる」と・・・