Montpellierの発音はモンペリエかモンプリエか?

日本人はMontpellierをモンペリエと大体の人が発音するが、フランス人はモンプリエという人が多い。フランス語の発音の規則からするとモンペリエの方が正しいと思われるが何故だろう。他にもこういう例がある。Auxerre(89)をオーセールと発音したり、オークセールと発音したりす...

2017年2月28日火曜日

モンペリエで生まれた人、住んだ人、旅した人

*モンペリエで生まれた人

Jacques 1er d'Aragon (1208-1276) - アラゴン王

Saint Roch (vers 1340-1379) - モンペリエの守護聖人

Sébastien Bourdon  (1616-1671) - 画家

Pierre Magnol  (1638-1715) - プロテスタント植物学者、モクレン属 (Magnolia)の名前の元になった

Louis Lepic (1765-1827) - 第1帝政時代の将軍

François-Xavier Fabre (1766-1837) - 画家、ファーブル美術館の創始者の一人

Auguste Comte (1798-1857) - 哲学者

Frédéric Bazille (1841-1870) - 印象派画家

Francis Ponge (1899-1988) - 詩人

Juliette Gréco (1927-) - 歌手、俳優

François Trinh-Duc (1986-) - ラグビー選手


*モンペリエに住んだ人旅した人

Guilhem 1er de Montpellier (985) - モンペリエの最初の領主

Guilhem V de Montpellier (1075-1121) - モンペリエの領主

Marie de Montpellier  (1182-1213) - ギレーム家のモンペリエ最後の領主

Guillaume de Grimoard (UrbainV) (1310-1370) - アヴィニョンの法王

Jacques Cœur (1395-1456) - フランス王Charles VIIの大蔵卿

François Rabelais (vers 1493-1553) - 医者、作家 (1530)

Nostradamus  (1503-1566) - 薬剤師、医者 (1529)

Jean-Jacques Rousseau (1712-1778) - 思想家 (septembre 1737)

Jean-Antoine Chaptal (1756-1832) - 化学者、政治家 (1774-1777)

Gustave Courbet (1819-1877) - 画家

André Gide (1869-1951) - 作家

Paul Valéry (1871-1945) - 詩人

Valery Larbaud  (1881-1957) - 作家、詩人

Jean Moulin (1899-1943) - レジスタン

Pierre Soulages (1919-) - 画家

Michel Galabru (1922-2016) - 俳優

Georges Frêche (1938-2010) - 政治家、元市長

Louis Nicollin (1943-) - 企業家、モンペリエ・エロースポーツクラブ創立者

Patrick de Carolis (1953) - ジャーナリスト、Mermoz高校在学

 Laurent Blanc (1965-) - 元サッカー選手、元パリ・サン・ジェルマン監督、モンペリエチーム出身



2017年2月20日月曜日

モンペリエの歴史

起源 : 現在のモンペリエの町の北側にローマ時代の道(Via domitia)が西ローマ帝国滅亡後もスペイン・イタリアを結ぶ街道として使われていた。海側の南には「塩の道」があり、塩の輸送に使われていた。

985年11月25日 : モーギオMaugio(34)の伯爵が手柄を立てた騎士のギレーム何某に今のモンペリエの丘を与えたという記録が残っている。

町の紋章

エキュッソンと呼ばれ、旧市街もこの形のため、エキュッソンと呼ばれる。

街道からやや外れていたが、サンティアゴに行く巡礼の人たちが現在のジャン・ジョレス広場にあったマリアに捧げられた小さな礼拝堂に行くようになる。だから町の紋章にマリア像がある。上部のA、MはAve Mariaのイニシャル、下部の日の丸はギレーム家の紋章。この巡礼者たちを受け入れながら商業の町として、領主の保護もあり少しづつ発展する。

1090年 : 領主Guilhem V(1075-1121)とマグロンヌ(モンペリエ郊外16㎞)の司教との間で町の支配権をめぐる抗争。

1098年 : Guilhem V、トゥールーズ伯Raymond IVの旗のもと第1回十字軍に参加する。

1105年 : Guilhem V モンペリエに戻る。1100年ごろ人口5000人。

1114年 : Guilhem V  バルセロナ伯Raimond-Beranger IIIの旗のもとレコンキスタ(スペイン領地回復)に参加する。この時初めて領主の名のもとに裁判を行う代官Bayleを置く。また、海洋貿易を重んじてラット(5km)に港を建設する。

1121年 : Guilhem V 遺言書にユダヤ人は代官になれないことを記す。このことはユダヤ人が多く町にやってきたことを示いている。

1141年 : 都市自由化の動き。一時、領主Guilhem VI 町から追放されるが、ジェノヴァ商人の力を借りて復位する。

12世紀後半 : いくつかの法学校、医学校が創立される。

1174年 : Guilhem VIII ビザンティン皇帝姪Eudoxieと結婚する。Eudoxieのお陰で華やかな宮廷文化が展開される。その後、跡取りが生まれなかった(女の子ひとり)のでEudoxieと離縁して、Agnès de Castilleと結婚する。

1204年 : Pierre II d'Aragonの陰謀。Guilhem IXは退位させられ、Marie de Montpellierが領主となる。ふたりの結婚を機に町に自由自治都市特許状が与えられる。1204年人口40000人。

1204年~1349年 : アラゴン王朝の支配下、最盛期に到達する。行政官が選ばれ、Jacques Iの宮廷が華やかに開かれる。

1213年 : Pierre II d'Aragon死す。アラゴン朝の支配から一部開放され半自治都市になる。自由都市として経済的に著しく発展する。地方生産物(香草、セージ、甘草、はちみつ、果物、香料入りワインなど)や輸入品(コショウ、スペインサフラン、シナモン、カンディア(クレタ島)の砂糖、丁子(香辛料)、織物...)などが売られた。12世紀末人口40000人でパリに次ぐ町となる。

1289年10月26日 : モンペリエ大学創立。

1293年 : フランス王Philippe IV モンペリエの支配権を一部獲得する。

1320年頃から洪水、冷害など気候の変化の影響で不作が続く。1364年トー湖全体が凍る。

1348年より黒死病(ペスト)の流行。4千万人(ヨーロッパの人口の3分の1)の死者。

1337年~1453年 : 百年戦争。町は直接戦場にはならなかったが、1361年傭兵くずれの野武士の略奪を受ける。

1349年5月19日 : マジョルカ王Jacques IIIがフランス王Philippe VIに約96万€で売ったためフランス王家の所有となる。

1380年 : 重税に対する町の反抗鎮圧される。

1388年 : Charles VI 行政官の人数を4人に減らす。

1432年 : Jacques Cœur(1395?-1456)モンペリエに来る。町に寄付をし、Lattes(34)の港を整備する。自分で建てた塔の上からラットに着く船を見ていたという話しも残っている。

1467年 : Louis XI モンペリエに徴税裁判所Cour des Aidesを置く。

1536年 : マグローヌ司教区、モンペリエに移される。

1560年-1630年 : ユグノー戦争。モンペリエは元々プロテスタントの町であった。

1577年 : 初めてのカトリック軍の攻撃を受ける。

1598年 : 信教の自由を認めた「ナントの勅令」。

1622年 : Louis XIII 町を2か月にわたり攻囲する。「ナント勅令」を再確認する「モンペリエ勅令」が調印される。

1624年 : 王側が現在のジョッフル高校の場所に堅固な城塞を築く。後に、プロテスタントの神殿の破壊、牧師の亡命が続く。

17世紀 : 平和になった町に豪邸が建設される。コメディー広場、凱旋門、ペイルー公園(建築家Avilerによる)が整備される。

1736年 : フランス革命(1789年)までモンペリエに地方三部会が置かれる。

1765年 : 技師のClapierとPitotによる水路が町に引かれる。

1790年 : エロー県の県庁となる。

19世紀 : ワイン生産が町に富が町に大きな変化をもたらす。この時期の建造物:裁判所、県庁、サン・タンヌ教会、サン・ロック教会、駅、オペラ座、カステランヌ市場(1855年)など。

1828年 : ファーブル美術館開館。

鉄道の開設。1839年モンペリエ・セット間、1845年モンペリエ・ニーム間、1857年モンペリエ・トゥールーズ間、1858年モンペリエ・マルセイユ間、1872年モンペリエ・パラヴァス間1968年廃止。

1863年 : フィロキセラ(ブドウの木の害虫)が南フランス全体に広がる。

1880年 : 馬で引くトラムウエイ開設。1897年トラムウエイ電化。1949年廃止。

1907年6月9日 : ワイン生産者の抗議デモ。60万~80万人がコメディー広場を埋める。このデモは、主としてフィロキセラ以後のワインの欠乏を外国のワイン(アルジェリア)で補ったため、ラングドック地方のワイン生産過剰になり、値段が下がったため。

第2次世界大戦中、モンペリエはフランス自由ゾーンにあった。

1943年 : トラムウエイの事故、7人死亡。

1956年 : コメディー広場にはじめて信号が設置される。

1960年-1980年 : 「ピエ・ノワール(アルジェリアからの引揚者)」と北アフリカのアラブ人の移民のため、人口が急速に増える。

1977年 : Georges Frêche 市長に当選。任期2004年まで。

1989年 : サッカーワールドカップの試合がモッソンで行われる。

2000年 : トラムウエイ1号線開設。2号線2006年、3号線、4号線2012年

2011年 : 新市庁舎完成。

2012年 : サッカー、モンペリエチーム(MHSC)一部リーグ制覇。

2013年 : フランスではじめてのホモの結婚式が行われる。 





 











2017年2月18日土曜日

モンペリエの名の語源

ある日本人からモンペリエってあの水を作っているところですかと言われたことがある。確かに水のペリエはそれほど遠くはないが(約30km)、もともと綴りが違う。モンペリエは「リ」の部分がLLだが、水の方はRRだ。日本語ではLとRの区別がないから間違えても当然だ。

さて、モンペリエの語源だが、結論からいうと綴りの後半の部分-pellierがどのようにして現代語でこのようにになったかよくわからないらしい。「モン」はフランス語の山montであることは確かで、985年に初めてのモンペリエについて記述にル・レーズ川とモッソン川の間に山という記述があるらしい。確かにモノペリエの中心部を歩くと小高い丘になっている。

後半の-pellierの部分はラテン語語源では①pastelパステル(藍色の植物顔料、トゥールーズ地方が有名)と②pilon(にんにくなど「つきさく」道具)の2つの解釈に分かれる。また、この地方の方言オキシタンoccitanの古い言葉では「錠」を意味するらしい。③「錠」というのは城壁で守られているいう意味らしい。①と③はありそうだが、②は単なる語源的なもので現実離れしている。③の城壁説は、現在一部残っている城壁は13世紀に築かれたのでやや時間のずれがある。個人的希望として①をとる。たぶん昔モンペリエの丘にパステルが沢山生えていたのだろう。

2017年2月16日木曜日

Notes de lecture

夫以外の人を愛しているのですか?それではその人の方に行きなさい。愛してない人にはあなたは娼婦です。愛している人にはあなたは妻です。2つの性の結びつきには、心が一番大事。自由に愛して考えなさい。残りは神様の仕事です。

原文
Vous aimez un homme autre que votre mari? Eh bien, allez à lui. Celui que vous n'aimez pas, vous etes sa prostituee ; celui que vous aimez, vous etes sa femme. Dans l'union des sexes, le coeur est la loi. Aimez et pensez librement. Le reste regarde Dieu. (Choses vues 1849-1885 de Victor Hugo, p.412)

2017年2月13日月曜日

モンペリエの紹介

モンペリエは、フランスで人口が8番目の町、地中海が近い都市型観光地であると同時に古い大学都市としても知られる。ミシュラングリーン・ガイド・ブックの三つ星を得て≪最も訪れる価値のある≫観光都市と認められた。 豊かな歴史遺産に恵まれる一方、近年では様々なフェスティバルが開催される。ラジオフランス音楽祭、モンペリエ・ダンス、地中海映画祭など。特にダンスでは世界の中心的存在でもある。2000年からトラムウエイ(市街電車)による都市整備計画が進んでいて、新しい街づくりが進んでいる。また、周りのラングドック地方は、古くからワインの生産地として知られ、上質のワインが生産されている。

モンペリエ市人口 : 279845人(2016年)
モンペリエ都市圏人口 : 419291人(2012年)

2017年2月9日木曜日

Montpellierの発音はモンペリエかモンプリエか?

日本人はMontpellierをモンペリエと大体の人が発音するが、フランス人はモンプリエという人が多い。フランス語の発音の規則からするとモンペリエの方が正しいと思われるが何故だろう。他にもこういう例がある。Auxerre(89)をオーセールと発音したり、オークセールと発音したりする。Metz(57)をメッツとメッス。要はどちらでもいいのだ。でも、モンペリエの方がラテンの香りがしてこの町あっている。

2017年1月9日月曜日

Victor HugoのChoses vuesについてのノート

Choses vuesを読むと確かにHugoが見ていたことが書かれているが、見ていたそのものが分かりにくい。「大革命」の余韻が続く時代の中でシャルル10世の「王政復古」が失敗した「7月革命」の時点1830年から話は始まる。国民の間であの「大革命」は何だったんだろうかと問い出しはじめた混とんとした時代だ。1793年にルイ16世が処刑されて、古い旧体制時代の王権はなくなったが、またこの時代別な形で王権が復活する不思議な時代だ。8月にはオランダ領ベルギーで革命が起き、10月には独立する。

何に対して書いたのかわかりにくいのは、文豪Hugo流の修辞技法が原因している。比喩表現には、直喩、隠喩、換喩、提喩の4つがあるのは知られているが、Hugoの文章にはほとんどこれらの比喩表現がない。比喩表現がないと対象を類推して把握することができない。

本を読み始める時、最初意味が分からなくて時に戸惑うものだが、それは作者の考えにもよるだろうが、むしろその考えの表現に寄っている。まあそれはそのうち慣れてくる。慣れたとしても全体をなんとなく把握するには時間がかかる。

追記:Gabriel AudisioのJeunesse de la Méditerranéeは奇異な語彙が多いが、それより表現に比喩表現が詩のなかように操られて分かりにくい。

- 最初の印象は間違っていた。文章に不均一性がある。1840年にナポレオンの灰がアンヴァリッドに収められる時の描写は、レ・ミセラブルの中の描写のようだ。

- 1846年の7月20日から文章が簡潔になり、日付けも付けられ、それこそ日記のように毎日書かれようになる。そのため、描写、説明がある文章はいいが、そうでないものは格言めいてわかりにくい。注によると毎年7月20日に聖ヴィクトールを祝うらしいが、聖ヴィクトールの日は暦によると21日になっている。

- 1848年4月24日のいわゆる「2月革命」の文章は、革命の雰囲気が強く伝わってきて面白い。立憲君主のルイ・フィリップが退位して、第2共和政が成立するわけだが、LamartineやLedru-Rollinなどがサインする共和政成立宣言を作成する場にHugoもいて、宣言文の中のフランス語の誤りを指摘している。その後、ルイーナポレオンが共和国大統領になり、クーデターによってナポレオン3世の第二帝政になる。

2016年12月25日日曜日

Notes de lecture

   Au sud de cette ligne(la limite nord de la vigne marchande), la vigne est le plus souvent discrète. Elle ne fait que se glisser ≪ le long des mille sinuosités des vallées et des coteaux ≫ exposés à la chaleur première du soleil levant. Au hasard de vos déplacements. elle surgit au coude de la route pour disparaître aussitôt. Elle ne se présente en nappes envahissantes que dans le vrai Midi, en Provence, Languedoc, Roussillon, sans jamais toutefois submerger tout le paysage. (L’identité de la France - les hommes et les choses II, p.108)

2016年12月11日日曜日

Notes de lecture

(...)l'histoire d'un peuple est inséparable de la contrée qu'il habite... Il faut partir de cette idée qu'une contrée est un réservoir où dorment des énergies dont la nature a déposé le germe, mais dont l'emploi dépend de l'homme. (P. Vidal de la Blanche, Tableau de la géographie de la France, p.8 - Citation de F. Braudel.

2016年12月2日金曜日

フランス町歩き⑥ ユス Eus(66)

カタロニアの旗とフランスの国旗が掲げられている町庁舎の手前で車を降りて、教会の方に登っていった。鐘楼はこの辺りでよく見る細い筒型のものだ。人けは全くない。教会の下の粗末な階段のところに太った猫が数匹こちらを見ている。誰かが餌をやるのだろう。アーチがいくつかある狭い階段の道を登ると教会は思った通り閉まっていた。教会の側面を通っていくと元お城のような廃墟があった。壁の間から景色を見るとちょうど正面に雪を頂いたカニグー(2786ⅿ)が見えた。こんなに近くで見たのははじめてだ。降りる途中にお城の中の通路のような道があって下の方に下っていたが、冒険せずに同じ道を下った。

帰りの道、車から振り返ると山の中腹にへばりついたユスの町が西日に輝いていた。『美しい村』の一つ。

2016年11月22日火曜日

地中海世界

La Méditerranéeを読み終えて、ジブラルタル海峡からシリアの海岸までにある巨大な内海の岸辺、小島、海、町、人、船が見えたような気がする。これまでどれほどの歴史家、作家、エッセイストなどが地中海について書いただろうか。知る限りでもカミュ、ジオノ、ダレル、シャンソンなど西洋側から見た視点だが、アラブ世界にも同じほどの作品があるのだろうか。ローマ人が呼んだMare Nostrumは広大なまた魅了的な世界だと改めて感じる。

2016年11月10日木曜日

新しい州名「オキシタニー」

2016年9月30日から2つの以前の州ラングドック・ルシオンとミディ・ピレネーが一緒になって、「オキシタニー」という名前が付いた。元来「オキシタニー」というのは、フランス北部のオイール語に対して、南部のオック語を話す地域の文化圏の呼び名である。住んでいる人・言語はオキシタン、最近売り出しの化粧品メーカーのオキシタンヌは女性形だ。中世ラテン語が崩れて変化し、北ではフランス語のouiをオイールといい、南ではオックといったことからその名前が付いた。

新しい州名の13県は、もちろん「オキシタニー」だが、地域全体の36%に過ぎない。そこが今問題になっている。残りの64%の地域、都市でいうとポー、ボルドー、リモージュ、クレルモン・フェラン、マルセーユ、ニースなどで「オキシタニー」文化の伝承に関わっている人、関わった人に混乱を引き起こすということである。更にカタロニア(スペイン側)、ピエモン(イタリア北部)も関係してくる。元々「オキシタニー」はオック語を話す地域の呼び名であって、行政単位にはふさわしくない。中心がないのである。

他の地域の州名例えばヌーヴェル・アキテーヌ(旧名:アキテーヌ、リムーサン、ポワトゥー・シャラント)などは創造的でうまく付けている。南フランスの文化的伝統からするとこの命名はやや不器用だったのではないか。

2016年11月7日月曜日

④Via Turonensis パリ発

パリ(75)のシテ島からサン・ジャック通り(ローマ時代のメインストリート)を南に進む一番遠い道は、トゥールを通るためにこの名前が付いた。パリは巡礼の時代すなわち11~13世紀には人口5万人前後の町であった。

オルレアン(45)からロワール川に沿ってブロワ(41)を通ってトゥール(37)に至る。トゥールではサン・マルタンにゆかりの場所を回ったのだろうか。この聖人は、4世紀の人ではじめてガリアの地で修道院活動を行ったと言われる。ローマの軍人であったが、凍えた乞食に自分のマントを与えたという故事から、施しの聖人と見なされている。ヨーロッパでは広く名前が伝わっていて、フランスの準守護聖人にもなっている。

ポワティエ(86)では、サント・ラドゥゴンドとサン・ティレールが崇められた。ラドゥゴンドは6世紀の人でフランク族王のクロテールの王妃にされたが、逃れて修道女になり、祈祷所とフランスはじめての病院を建て自ら病人の世話をした。その後、ポワティエにノートルダーム修道院を建て、数々の病気治癒の軌跡を起こした。一方イレールの方は4世紀の人でサン・マルタンと同時代の人で実際サン・マルタンはポワティエまで来ている。聖人としては、人民にカトリックの教義を説いたり、聖書注釈などを書いた理論家であった。様々な作品の執筆をしながら、最後はガリアでは稀なオルトドクスの教会の大司教になった。

メル(79)にもサン・ティレール教会があるが、正面の建築様式が似ていて、やはりオルトドクスの教会だったのだろうか。それともサン・ティレールの遺骸がここにもあったのだろうか。メルからポンス(17)までの行程は、それぞれの区間が30㎞以下の距離で1日に歩ける距離だったのだろうか。

オルネー(17)にある、サン・ピエール教会は、古代ローマ時代からある墓場の中に立っている。また、墓場にはこの地方独特のホサナ十字架と4人の使徒の石像が立っているようである。4人の使徒とはヨハネ(北)、パウロ(南)、大ジャック(東、巡礼の恰好をしているらしい)、ペテロ(西)だ。教会の壁の彫刻は大分修復されたようだが、ペテロが殉教したと伝えられる逆さ十字架の像や数々の興味深い彫刻が残っている。

サン・ジャン・ダンジェリーには、9世紀に洗礼のヨハネの遺物を祀った修道院があったと言われるが、バイキングによって破壊された。

サント(17)にはサン・トゥトロップ大聖堂があるが、クルニー修道院が管理していて、何人かの修道僧が巡礼者たちを受け入れたようだ。

ポンス(17)は中世の城壁に囲まれた町だったが、巡礼の人たちのための病院があった。元々病院は城壁内にあったようだが、日が暮れると安全のために城門を閉じてしまうため巡礼者たちは翌日の朝まで待たねばならなかった。また、伝染病が城壁内に広がることを恐れて、後に領主が城壁の外に病院を建てたとされる。また、この病院は巡礼者でなくても受け入れ、その他寝るところと食事などを提供していた。捨て子のために病院入口には籠が置かれていたという話もある。

ボルドー(33)では、サン・タンドレ大聖堂、サン・スーラン教会、サン・ミッシェル教会などに巡礼者たちは立ち寄ったと思われるが、詳細はわからない。また、サン・ジャック病院があり、治療を受けた。この町ボルドーは1154年イギリス王朝の支配下に入ったが、巡礼者に何か影響があったのだろうか。

ソルド・ラベイ(40)では、サン・ジャン修道院に泊まった。水量の多い2つのガーヴ(川)を渡るには待つこともあったかもしれない。川を渡れば目指すはサン・ジャン・ピエ・ド・ポールだ。




2016年11月3日木曜日

③Via Lemovicensis ヴェズレー発

この道は、リモージュ(87)を通るためにこの名前がつけられた。リモージュを越えれば、ピレネーまでは平坦で肥沃な地帯を通る。

出発地点のヴェズレー(89)にあるマドレーヌ修道院は、11世紀から13世紀にかけて、西ヨーロッパでのマドレーヌ(マグダラのマリア)信仰の中心として、すでに多くの巡礼者を集めた。あのサン・ベルナール・ド・クレルヴォーもここで第二回十字軍を説いたと言われる。北東フランスからやってきた信者たちは、ここでミサを聞いて中央山塊をピレネーに向かって行った。

出発後、ブルジュ(18)経由の道とヌヴェール(58)経由の2つに分かれる。ブルジュを通る道は、シャリテ・シュール・ロワール(58)のノートルダーム修道院に立ち寄らねばなかった。クルニー修道院の影響下当時ヨーロッパで大きな勢力を持った修道院であった。当初パリのノートルダーム大聖堂の設計を真似たサン・テティエンヌ大聖堂には敬虔な信者や巡礼者が訪れた。

ヌヴェール側の道では、ヌーヴィ・サン・セピュルクル(36)にあるサン・テティエンヌ教会は、エルサレムにあるキリストの墓を納めたサン・セピュルクル教会を真似て、十字軍から戻ってきたディオルス(36)の領主が建立したと言われる。

サン・レオナール・ド・ノブラ(81)のサン・レオナールという聖人は、あくまでも伝説の域を出ない人だが、聖人伝によるとフランク族の王クロヴィスと同時代の人で、クロヴィスのようにキリスト教に入ったと伝えられる。また、クロヴィスが跡取りに授かるように祈って、それがかなえられた褒美としてノブラの地に土地を与えられ、修道院を開いたと言われる。サン・レオナールは、牢屋の囚人を解放したり、お産や家畜の病気を和らげる力があると信じられていた。

ペリグー(24)のサン・フロンという聖人は、伝説の人物だが、聖人伝によると1世紀ごろペリゴールで生まれ、エジプト、ローマと遍歴した。ローマでサン・ピエールに会ったと伝えられている。ペリゴールに戻り、この地の福音伝道者になった。

その後、バザス(33)を通って、サン・スヴェール(40)のクルニーと並ぶ大修道院に向かった。修道院に泊まった巡礼者たちは、疲れた体を休め、様々の恩恵に浴したと思われる。あとはサン・ジャン・ピエ・ド・ポールを目指すばかり。



2016年10月28日金曜日

②Via Podiensis ル・ピュイ・アン・ヴレ発

この道はル・ピュイ・アン・ヴレ(43)を出発して、中央山塊の山がちのコースを通る。

ル・ピュイにある、最初5世紀に建てられたサント・マリ・マジュール大聖堂は、西ヨーロッパで最初に建設された、マリアに捧げられた教会らしい。町の高台にあるノートルダム・ド・ラノンシアシオン大聖堂には、黒いマリア様が祀られている。この町にはマリア信仰の長い伝統があり、既にこの町を目指すヨーロッパ東方の巡礼者が絶えなかった。

黒いマリア像は、あの聖ルイ王が十字軍遠征から戻ってきて、この町に奉納したという話もあるが、現在あるマリア像はそれほど古いものではないらしい。18世紀の革命前にヴェイラックという人が描いた銅板だと今のような気品のある洗練されたマリア像ではない。しかし、ル・ピュイの黒いマリア像が最初に造られ、他のマリア像のモデルになったことは間違いない。推測になるが、この18世紀以前のアリア像がマリアがなぜ黒いかというの謎を解く道に導いてくれるように思える。現在、2つの説がある。ひとつは、この18世紀以前のマリア像が、エジプトの豊穣の女神イジス像の姿勢と似ていると言われる。そう言えば、サント・マリ・ド・ラ・メールの黒いサラも2人或は3人マリアに従ってエジプトからやって来たと言われる。もうひとつの説は、木製であったため長い時間を経るにつれて、お香とロウソクの煤のために黒くなったのではないかという説。奈良の中宮寺の弥勒菩薩半跏像同じように年月と共に黒くなった。元々黒いマリア像を作りたければ黒檀などの黒い木を使うだろうが、どうもこの中世では黒檀ではないらしい。

巡礼の道の図

地図を見ると、この道には安全な区間(赤で囲まれた部分)があり、何か特別な方策が試みられている。これは、概して山の中を通るため、追剥などの被害を受けるからなのだろうか?ロット川に近づくと少しの間、川に沿って進む。山の中にあるコンク(12)はわざわざロット川から離れる。この小さな村もまたそこだけで巡礼地になっていた。修道院付属教会名になっているサント・フォワは、3世紀の初めアジャン(47)で殉教した12歳の少女で、その頭蓋骨がすばらしい聖物入れに残っている。866年にコンクの修道僧が誰も知らなかったサント・フォワの骨を持ち帰って、ここにあるらしい。巡礼者たちにも遠回りする価値があったのだろう。

カオール(46)でヴァラントレ橋を渡り、ロット川を離れる。次の目的地はモワサック(82)だ。ここのサン・ピエール修道院付属教会も元より巡礼者には重要だったが、それよりもこの道では唯一サン・ジャック信心会(慈善団体のような組織)が病院を組織し、巡礼者たちの治療にあたった。

そのあと、難関のガロンヌ川を渡れば、目指すはピレネーだ。途中のエール・シュール・ラドゥール(40)には、巡礼者のための病院が2つあったらしい。サン・ジャン・ピエ・ド・ポールまでまだかなりの道のりだが、ガスコーニュの豊かな丘陵地帯を進む。



2016年10月21日金曜日

①Via Tolosana アルル発

この道はアルル(13)から出発してトゥールーズを通るのでこの名前が付いたと思われる。主に湿地帯を通るため比較的平坦なコースだった。

アルルのサン・トロフィーム教会には沢山の巡礼者たちがミサを聞いたに違いない。このトロフィームは3世紀にローマのローマ教会からガリア(今のフランス)に送られた7人の伝道者の一人でその7人が最初のガリアの司教になったとされるが、どんな奇跡を起こしたなどの話はなく、あくまでも伝説の域を出ない人物だ。現在の教会は12世紀に建設されたが、以前に重要な教会があったと思われる。少なくともアルルはミニ巡礼のばしょではなかった。

アルルを出ると舟橋か渡し舟でローヌ川を渡り、広大に広がるカマルグの湿地帯を進むとサン・ジル(30)に到着する。伝説によるとサン・ジルという聖人は7世紀ごろの人で、ミサを執り行っている時、天使が祭壇の上にフランス王の犯した罪を書いた羊皮紙を持って現れ、ミサが進むにつれ、その書かれた罪が消えていったという伝説がある。伝説はあくまで伝説だが、巡礼者を引き付ける話だ。巡礼に旅立つには何か理由がある。サン・ジルはすでにサンチアゴの前に巡礼地であった。

その後、それほど大きな町ではなかったモンペリエ(34)を通り、山側のサン・ギエーム・ル・デゼール(34)に進む。804年にトゥールーズ伯のギヨーム(オック語ではギエーム)ジェローヌという小さな川の上流に修道院を開いた。当初 キリストの十字架のかけらが聖物として納められており、すでに多くの巡礼者を引き付けていた。

トゥールーズまで距離があるが、ローマ時代の道の地中海と大西洋を結ぶ、比較的平坦な道を進んだに違いない。途中カルカソンヌ(11)のサン・ナゼール教会に寄ったかもしれない。トゥールーズのサン・セルナン大聖堂は多くの巡礼者を引き付けたことは建物の大きさ、構造を見れば安易に想像できる。セルナンという人は250年に野生の牛に引きずられて、現在のカピトゥール広場から大聖堂を結ぶ、昔のメインストリート(現在のトール通り)の途中で 息絶えたという凄まじい伝説の残る聖人だ。セルナンはサテュルナンとも呼ばれ、南西部の至る所に町の名前として残っている。どんな人物であったのだろうか。3世紀はガリアでは殉教(すなわち迫害)の時代だが、殉教者が巡礼者を引き付けたのだろうか。そう言えば、パリの聖人サン・ドニも3世紀に殉教したと言われる。首を切られた後、自分の首を持って歩いたという殉教の仕方も凄まじい。サン・ドニも多くの巡礼者を引き付けた。

トゥールーズを西に進むとガスコーニュ地方のオーシュ(32)に着く。現在、巨大なゴシックフランボワイヤン様式の大聖堂サント・マリ・ドーシュがあるが、9世紀頃に同名の教会があったようだ。巡礼者の間では、道中安全にサンティアゴまで導いてくれるマリヤ信仰は殊更重要だったようだ。巡礼の道にはマリア(ノートルダーム)の教会が多い。また、黒いマリア像も多い。黒いマリアについては後述するが、19世紀のマリヤ信仰復活も含めて、キリスト教の真髄を流れている。

ローマ時代のスペインへの道は、教会入口の彫刻がすばらしいオロロン・サント・マリ(64)を通って、ソンポール峠を越えて、スペインに入る。どの巡礼の道もローマ時代の道を少なからず通っている。


2016年9月27日火曜日

フランス町歩き⑤ ペルージュ Pérouges(01)

リヨン(69)から車で45分ほどのところにフランス美しい村の一つで中世の街並みが残るペルージュがある。観光局の前から緩やかな坂を上ると左側に教会がある。この教会は側面の壁がそのまま城壁の一部になっていて、銃眼が教会の内部から覗ける。教会の横が城門になっていて、教会の入口は城門の外になる。上の城門と下の城門があって、下の城門は城壁の反対側のやや下ったところにある。

上の城門を入るとそこがロンドの通りといい、城壁の内側をぐるっと回る道だ。左に行っても右に行っても同じだが、人がいる左側の道を行く。少し行くと右側にがガレット・ド・ペルージュの調理場が見えた。ガレットといってもピザのように厚い。ガレットよりも調理場がなんとなく中世風で中世はこんな風に店を構えていたんだなと思った。

狭い路地を覗くと先に広場が見える。菩提樹広場(Place de la Tilleul)だ。真ん中に菩提樹が一本生えている広場だが、ここが町の中心だ。今はカフェとレストランがあるが、あまり人はいない。菩提樹の下でタバコを一本吸った後、広場に面した建物を一つ一つ見て回った。建物の軒下にトウモロコシが沢山干してあった。壁をつたわるブドウの木には白ブドウがなっていた。

中世の町で静かなひと時を過ごした。

2016年9月1日木曜日

サンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の道 Camino francés

スペイン語のサンチアゴはフランス語でサン・ジャックと同じだ。 9世紀にキリストの弟子12使徒の一人Jacques le majeur(12使徒にジャックが二人いるので大ジャックと区別する)の墓が見つかり、それ以降ヨーロッパ中から巡礼者たちが集まるようになり、ローマ、エルサレムと並び3大聖地になった。どうしてサン・ジャックの墓ということが分かったか疑問だが、ペラージョという隠遁者が神の啓示を受けたというから本当なのだろう。このジャックはヘロデ王に殺されたという話もある。とにかく中世にキリスト教信者が目指す聖地になった。

12世紀のエムリー・ピコーという修道僧が書いたと言われる『巡礼ガイド』によるとフランスで ピレネー山脈に至るサンチアゴの巡礼路は4本ある。サンチアゴへの道参照。
サンチアゴへの道へのリンク
4本の道のうち3本は、サン・ジャン・ピエ・ド・ポール(64)からロンスヴォー峠(1057m、スペイン)を通ってピレネー山脈を越える。残りの1本はソンポールの峠(1632m)を越えてスペインに入る。地図でピレネー山脈を見ると大西洋岸と地中海岸を除いてフランス側スペイン側ともに3000m級の山が聳え立っている。ローマの道が通っていた地中海側はスペインに入ってからイベリア半島を縦断することになり、かなり遠回りになる。従って、巡礼の道がバスクを通ったのは当然かもしれない。

これらの巡礼の道が形成されたのには訳がある。いくつかの通過地点は、サンチアゴへの巡礼が始まる前からミニ巡礼地として沢山の信者を集めていた。それらのフランスの巡礼地をこれから見ていきたい。

2016年8月27日土曜日

海岸・プールでのブルキニの問題

                                                 プールでブルキニ
  
地中海沿岸のいくつかの市が海岸・プールでのブルキニの着用を禁止する条例を出した。それに対し国家評議会はこれらの市の条例は「信教と個人の自由という基本的自由を、明確かつ違法に侵害する」という理由で無効であるという見解を出した。市の禁止の理由が「宗教を誇示し、治安を乱す」などであるが、よく写真で見る19世紀から20世紀初めの水着を今着て海岸やプールにいたらどう思うだろうか。どちらも完全に浮いている。ブルキニの場合、宗教的理由らしいが、コーランには海岸やプールに行くなとは書いてないのだろうか。それほど宗教が人間の行動を規定するなら、宗教は不幸しか与えない。アラブ人の生活もすでに欧米化して久しいが、ヴァカンスを取ったり、サッカーを観にいったり、ほとんどフランス人と同じ生活をし、考え方もフランス人とそれほど変わらないのに、一部の在仏アラブ人がワザとこんなことをやっている。「信教と個人の自由」を尊重するあまりフランスの社会にはとんでもない「病原菌」が入り込んでいる。

長寿なオリーブの木

ガール県(30)にあるローマ時代の水道橋ポン・デュ・ガールの左岸にある3本のオリーブの木は1000年以上生きていると言われる。水道橋が約2000年前に建設されて、ニーム(30)まで水を運んでいた。この3本のオリーブの木は、もともとここに生えていたのではなく、1989年のフランス革命200年祭の時スペインからプレセントされたらしい。今でもちゃんと実がなる。ポン・デュ・ガールの近くには沢山のオリーブ畑があるが、ローマの水道橋とオリーブの木のある白茶けた風景とよくマッチする。

1956年の2月にフランス全土を異常な寒気が襲った。南仏でもエクス・アン・プロヴァンス(13)でマイナス20度まで達した。その時ほとんどのオリーブとブドウの木がやられ、ほとんど全滅した。そのため現在生えているオリーブの木は1956年以降のものだ。しかし、この冷害を逃れたオリーブの木が残っている。この木は比較的暖かかったと思われるロックブルンヌ・カップ・マルタン(06)にある。(写真)

この木は2000年以上生きており、高さが20m、今でもオリーブの実をつける。この木はまたフランスで一番古い木になるかもしれない。2000年前と言えば、ポン・デュ・ガールが建設されたアウグスチヌスの時代でPax romana「ローマの平和」と呼ばれた。

世界にはもっと古いオリーブの木がある。ギリシャのクレタ島のヴヴェスにある木は3000年以上たっているといわれる。そして、今でも実をつける。古代からオリーブオイルの産地として知られるクレタ島ならではの話だ。オリーブの木は病気や山火事に強く、様々な条件さえ整えば長生きする樹木だ。

2016年8月21日日曜日

Notes - VOYAGE

...je ne peux m’empêcher de mettre en doute qu'il existe d'autres véritables réalisations de nos profonds tempéraments que la guerre et la maladie, ces deux infinis de cauchemar.(p.418)

2016年8月10日水曜日

フランス町歩き④ カンボ・レ・バン Cambo-les Bains(64)

ホテルを出ると緩やかな坂道の両側に閑静な住宅が並ぶ。名前の通り保養地として知られ、昔は湯地客が訪れたと想像する。バスク地方にある小さな保養地には人影も少なく、夏なのに寂しい感じがする。あのシラノ・ド・ベルジュラックの作者のエドモンド・ロンスタンは、la maison de ses rêves(夢の家)を20世紀の初めにこの町の高台に建てた。ミニヴェルサイユのような庭園があるヴィラ・アルナガは、現在ロンスタンに関する博物館になっている。


夜、町のレストランChanteclerでバスク料理のAxoa de veau(axoaとはバスク語で細かく切った肉をいう。一種の子牛のソテ)を食べた。初めて飲んだバスク産の白ワインは軽くて爽やかだった。