Montpellierの発音はモンペリエかモンプリエか?

日本人はMontpellierをモンペリエと大体の人が発音するが、フランス人はモンプリエという人が多い。フランス語の発音の規則からするとモンペリエの方が正しいと思われるが何故だろう。他にもこういう例がある。Auxerre(89)をオーセールと発音したり、オークセールと発音したりす...

2017年2月20日月曜日

モンペリエの歴史

起源 : 現在のモンペリエの町の北側にローマ時代の道(Via domitia)が西ローマ帝国滅亡後もスペイン・イタリアを結ぶ街道として使われていた。海側の南には「塩の道」があり、塩の輸送に使われていた。

985年11月25日 : モーギオMaugio(34)の伯爵が手柄を立てた騎士のギレーム何某に今のモンペリエの丘を与えたという記録が残っている。

町の紋章

エキュッソンと呼ばれ、旧市街もこの形のため、エキュッソンと呼ばれる。

街道からやや外れていたが、サンティアゴに行く巡礼の人たちが現在のジャン・ジョレス広場にあったマリアに捧げられた小さな礼拝堂に行くようになる。だから町の紋章にマリア像がある。上部のA、MはAve Mariaのイニシャル、下部の日の丸はギレーム家の紋章。この巡礼者たちを受け入れながら商業の町として、領主の保護もあり少しづつ発展する。

1090年 : 領主Guilhem V(1075-1121)とマグロンヌ(モンペリエ郊外16㎞)の司教との間で町の支配権をめぐる抗争。

1098年 : Guilhem V、トゥールーズ伯Raymond IVの旗のもと第1回十字軍に参加する。

1105年 : Guilhem V モンペリエに戻る。1100年ごろ人口5000人。

1114年 : Guilhem V  バルセロナ伯Raimond-Beranger IIIの旗のもとレコンキスタ(スペイン領地回復)に参加する。この時初めて領主の名のもとに裁判を行う代官Bayleを置く。また、海洋貿易を重んじてラット(5km)に港を建設する。

1121年 : Guilhem V 遺言書にユダヤ人は代官になれないことを記す。このことはユダヤ人が多く町にやってきたことを示いている。

1141年 : 都市自由化の動き。一時、領主Guilhem VI 町から追放されるが、ジェノヴァ商人の力を借りて復位する。

12世紀後半 : いくつかの法学校、医学校が創立される。

1174年 : Guilhem VIII ビザンティン皇帝姪Eudoxieと結婚する。Eudoxieのお陰で華やかな宮廷文化が展開される。その後、跡取りが生まれなかった(女の子ひとり)のでEudoxieと離縁して、Agnès de Castilleと結婚する。

1204年 : Pierre II d'Aragonの陰謀。Guilhem IXは退位させられ、Marie de Montpellierが領主となる。ふたりの結婚を機に町に自由自治都市特許状が与えられる。1204年人口40000人。

1204年~1349年 : アラゴン王朝の支配下、最盛期に到達する。行政官が選ばれ、Jacques Iの宮廷が華やかに開かれる。

1213年 : Pierre II d'Aragon死す。アラゴン朝の支配から一部開放され半自治都市になる。自由都市として経済的に著しく発展する。地方生産物(香草、セージ、甘草、はちみつ、果物、香料入りワインなど)や輸入品(コショウ、スペインサフラン、シナモン、カンディア(クレタ島)の砂糖、丁子(香辛料)、織物...)などが売られた。12世紀末人口40000人でパリに次ぐ町となる。

1289年10月26日 : モンペリエ大学創立。

1293年 : フランス王Philippe IV モンペリエの支配権を一部獲得する。

1320年頃から洪水、冷害など気候の変化の影響で不作が続く。1364年トー湖全体が凍る。

1348年より黒死病(ペスト)の流行。4千万人(ヨーロッパの人口の3分の1)の死者。

1337年~1453年 : 百年戦争。町は直接戦場にはならなかったが、1361年傭兵くずれの野武士の略奪を受ける。

1349年5月19日 : マジョルカ王Jacques IIIがフランス王Philippe VIに約96万€で売ったためフランス王家の所有となる。

1380年 : 重税に対する町の反抗鎮圧される。

1388年 : Charles VI 行政官の人数を4人に減らす。

1432年 : Jacques Cœur(1395?-1456)モンペリエに来る。町に寄付をし、Lattes(34)の港を整備する。自分で建てた塔の上からラットに着く船を見ていたという話しも残っている。

1467年 : Louis XI モンペリエに徴税裁判所Cour des Aidesを置く。

1536年 : マグローヌ司教区、モンペリエに移される。

1560年-1630年 : ユグノー戦争。モンペリエは元々プロテスタントの町であった。

1577年 : 初めてのカトリック軍の攻撃を受ける。

1598年 : 信教の自由を認めた「ナントの勅令」。

1622年 : Louis XIII 町を2か月にわたり攻囲する。「ナント勅令」を再確認する「モンペリエ勅令」が調印される。

1624年 : 王側が現在のジョッフル高校の場所に堅固な城塞を築く。後に、プロテスタントの神殿の破壊、牧師の亡命が続く。

17世紀 : 平和になった町に豪邸が建設される。コメディー広場、凱旋門、ペイルー公園(建築家Avilerによる)が整備される。

1736年 : フランス革命(1789年)までモンペリエに地方三部会が置かれる。

1765年 : 技師のClapierとPitotによる水路が町に引かれる。

1790年 : エロー県の県庁となる。

19世紀 : ワイン生産が町に富が町に大きな変化をもたらす。この時期の建造物:裁判所、県庁、サン・タンヌ教会、サン・ロック教会、駅、オペラ座、カステランヌ市場(1855年)など。

1828年 : ファーブル美術館開館。

鉄道の開設。1839年モンペリエ・セット間、1845年モンペリエ・ニーム間、1857年モンペリエ・トゥールーズ間、1858年モンペリエ・マルセイユ間、1872年モンペリエ・パラヴァス間1968年廃止。

1863年 : フィロキセラ(ブドウの木の害虫)が南フランス全体に広がる。

1880年 : 馬で引くトラムウエイ開設。1897年トラムウエイ電化。1949年廃止。

1907年6月9日 : ワイン生産者の抗議デモ。60万~80万人がコメディー広場を埋める。このデモは、主としてフィロキセラ以後のワインの欠乏を外国のワイン(アルジェリア)で補ったため、ラングドック地方のワイン生産過剰になり、値段が下がったため。

第2次世界大戦中、モンペリエはフランス自由ゾーンにあった。

1943年 : トラムウエイの事故、7人死亡。

1956年 : コメディー広場にはじめて信号が設置される。

1960年-1980年 : 「ピエ・ノワール(アルジェリアからの引揚者)」と北アフリカのアラブ人の移民のため、人口が急速に増える。

1977年 : Georges Frêche 市長に当選。任期2004年まで。

1989年 : サッカーワールドカップの試合がモッソンで行われる。

2000年 : トラムウエイ1号線開設。2号線2006年、3号線、4号線2012年

2011年 : 新市庁舎完成。

2012年 : サッカー、モンペリエチーム(MHSC)一部リーグ制覇。

2013年 : フランスではじめてのホモの結婚式が行われる。 





 











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